安倍政権に最良の日本エネルギー政策を期待する
電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2013年2月, 春季号より
サラーム会会長 小林育三
民主党政権により日本の「エネルギー基本計画」は暗礁に乗り上げていた。“2030年までに原発ゼロ”という代案無きエネルギー政策が福島原発事故による国民的不安と国民の抱く原子力アレルギーによって圧倒的支持を得ているとの錯覚によるものであった。国民はそのような感情論に流されることなく、冷静なエネルギー政策を求める判断を選挙で示した、といえよう。
平成25年1月11日、安倍首相は、緊急経済対策の決定を受け、総理大臣官邸で記者会見を開いた(首相官邸ホームページから)
1859年アメリカのペンシルバニアで石油が発見され、世界は石油の世紀に突入した。特に動力源として石炭から石油への転換を図ったのはイギリス海軍大臣チャーチルであった。1912年のことで、議会決定されたのは1914年第一次世界大戦が始まる7週間前のことである。イギリスがドイツの軍事力に勝つ決定的要因となった。戦争史においては日露戦争が石炭を動力源とする最期の戦争であったとする所以でもある。
世界列強が石油資源獲得競争に国運をかけしのぎを削ってきた約100年間、1940年代当時、石油資源の無い日本がそのことをどのくらい真剣に自覚していたかについては疑問の残るところである。ABCD包囲網と、1941年当時のアメリカ大統領ルーズベルトによって打ち出された日本に対する石油禁輸政策は日本をして太平洋戦争に追い込まれる大きな一因となったである。日本はインドネシアの石油を求めて戦線自体を南方進出へと方向を曲げざるを得なくなった。
戦後日本は、敗戦の苦い経験の中から復興政策のひとつに自主油田開発を掲げた。そして1973年第一次オイルショック以降の石油の安定供給政策へと続いた。エネルギーミックス(エネルギー源の種類と地域の分散)政策はエネルギーの安定供給なくして国民生活と日本経済の基盤に安心と安定をもたらすことはできないとの考えから生まれたものだ。この政策は正しく機能し、第二次オイルショックを乗り越え1985年代には‘Japan as No.1’といわれる世界第二の経済大国の地位をもたらした。 その後グローバル時代の到来により、世界経済時代に突入し、地球環境保護が叫ばれるようになり、石油資源の有限性とCO2 排出による地球温暖化への警鐘が鳴らされた。そこで注目されたのが原子力発電である。
(続きは、電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2013年2月, 春季号にて…)