202108

中東平和と日本—湾岸戦争後30年の節目にあたって

元エジプト・イラク・UAE大使、日本アラブ協会副会長 片倉邦雄

電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2021年8月, 秋季号より




 2021年も半年を越えた。今年は明治30年以来124年ぶりに2月2日が節分で、3日が立春になる特別の年である。
 日本と中東との関係で視ると、自主原油開発の始まった1960年から60年、湾岸戦争から30年という節目にあたる。私にとっても1960年に外務省に入省以来60年が経過したことになる。
 日本と中東のためにお役に立てれば、との一念で困難な局面を越えて来ることが出来た。
しかし中東和平に関し、日本が積極的に関与すべきとの観点に立つとき、8合目を越える大事な時を迎えている、との感を強く持つ私はここにその一端を披露したい。


ルック・中東の熱風を背に受けて

サウード国王に謁見する山下太郎社長、1957年12月10日、数ヶ月におよんだ難交渉の末、日本輸出石油とサウディアラビア政府との間で、サウディアラビア・クウェイト中立地帯沖合の利権区域における石油開発に関する利権協定に調印(アラビア石油社史I 「砂漠に根をおろして」)
サウード国王に謁見する山下太郎社長、1957年12月10日、数ヶ月におよんだ難交渉の末、日本輸出石油とサウディアラビア政府との間で、サウディアラビア・クウェイト中立地帯沖合の利権区域における石油開発に関する利権協定に調印(アラビア石油社史I 「砂漠に根をおろして」)

 私は1960年に外務省に入りました。当時はルック・中東の世界的機運の時代でした。第二次大戦後、東西冷戦時代に入り世界が米ソ二大陣営に分断されつつあった中、エジプトは第三世界のリーダーとして主導的役割を発揮していました。ナセル大統領は英仏支配下にあったスエズ運河の国有化に成功し、一躍アラブ世界の英雄として、アラブ民族主義を大いに高揚させました。 一方、日本のアラビア石油株式会社(AOC)社長であった山下太郎は、このアラブ民族主義を背景に、度重なる交渉の末、ペルシャ湾のサウジ―クウェート間の中立地帯海底油田の採掘利権を獲得しました。この快挙は、英米メジャーに対する不満、アラブ民族の日本に対する親近感、山下太郎の熱意等によってもたらされた天佑の業であったと思います。しかもアラビア石油は1960年1月、その最初の試掘で油田を掘り当てるという奇跡的なスタートを切りました。山下太郎は後に「アラビア太郎」の異名を取るまでになりました。

上左写真は、アラビア語研修中、ジェリコのパレスチナ難民キャンプを訪れる。後列左から2人目が片倉邦雄氏(1962年)
アラビア語研修中、ジェリコのパレスチナ難民キャンプを訪れる。後列左から2人目が片倉邦雄氏(1962年)
ピーター・オトゥール主演の映画「アラビアのロレンス」ポスター
ピーター・オトゥール主演の映画「アラビアのロレンス」ポスター

 私は日の丸原油自主開発成功の直後に入省した事になります。日本の経済界あげてのアラビア・ブームに後押しされ、アラビア語研修生として3年間をロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)、英国外務省直属アラビア語研修センター(MECAS、在レバノン)、続いてカイロ大学に留学しました。「アラビアのロレンス」の映画に感激して、中東イスラーム世界の灼熱の沙漠に計算なしに飛び込み、アラビア語、ペルシャ語を無我夢中で学びました。

 ほぼ並行して、後に私の妻となるもとこ(1937~2013)は津田塾大学を卒業後、ナセル奨学金留学生としてカイロ大学で学び始めていました。私と結婚後も、子育てしながら、特にサウジの聖地メッカの後背地ワーディ・ファーティマで半遊牧・半定着民と生活を共にし、その間行ったフィールドワークを中心に、文化人類学者としてアラブ社会の研究を続けました。私たちは約半世紀、二人三脚で中東・イスラーム世界の人々とつきあい、活動してきました。サウジアラビアなどの伝統的アラブ社会では、われわれ男性は顔覆いと全身にヴェールをまとった女性の姿・形を見ることができないし、話をすることもできません。しかし、もとこは結婚式など社交の機会には女性のテントに招かれますし、男性のテントにも出入り自由です。男性はひとつしか目を持たないけれど、女性は三つ目を持っている。私はもとこを通じて、やっとアラブの女性社会を垣間見ることができました。

第一次石油ショック

 イスラエル独立の直後からアラブとの間には4次に亘る中東戦争が起っています。第一次石油ショックとは第四次中東戦争後に軍事大国エジプトと石油大国サウジアラビアが中心となって仕組んだ戦略―イスラエルに友好的、または中立的な石油消費国に対し供給カットを行うことで同国の占領地からの撤退を迫る「アラブ石油戦略」によって引き起こされた世界的パニック現象を指した言葉です。日本ではトイレットペーパーまで買い漁る騒動がおきたことを記憶されている方もおられるでしょう。

1973年10月、第一次オイルショックでのスパーマーケット
1973年10月、第一次オイルショックでのスパーマーケット

1973年10月25日、朝日新聞
1973年10月25日、朝日新聞

 第四次中東戦争は1973年10月6日に始まり、その戦争の影響が日本に津波のように押し寄せて来るとは誰も予想していませんでした。さらに、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)加盟のアラブ諸国は、エジプトとシリアの対イスラエル戦争支持のため原油の公示価格を一方的に70%引き上げました。更に日本に対しサウジアラビアは「非友好国」扱いであるとし、原油生産においてもAOCに対して10月18日―11月末まで10%削減とし、その後については追って通告する、と言うきわめて厳しい内容でした。

市場原理に基づく打開

下の二つのグラフは、通産省(現、経済産業省)の提示した「エネルギーミックス政策」によって、原油輸入とエネルギー供給に対する打開策が功を奏したことを示しています。

国別原油輸入量と中東依存度
(出所:経済産業省資源エネルギー庁「エネルギー白書2019」)




 グラフに示されるごとく、日本は原油輸入の中東依存度を減らし且つ輸入国の多様化を図りました。1973年と1987年を比較すると、原油輸入量は日量500万バーレルから320万バーレルに減少し、中東依存度について見れば77.5%から67.9%に減少しています。次に、下記のグラフによれば、1973年度には一次エネルギー国内供給の75.5%を石油に依存していた状況から、石油に代わるエネルギーとして、原子力、天然ガス、石炭が促進され、さらに新エネルギーの開発を加速させたことが分かります。その結果、一次エネルギー国内供給に占める石油の割合は、2010年度には40.3%と大幅に低下する事が出来ています。

一次エネルギー国内供給の推移
(経済産業省資源エネルギー庁「エネルギー白書2020」)




 このように、通産省は日本国内での一次エネルギーとしての石油依存度を低減させ、原油輸入量の中東依存度を低減させる、というミックス政策により、産業経済の基盤となるエネルギー基本計画の抱える石油リスク回避に道筋を付けた、と言えましょう。

迫られた日本の資源外交

 しかしこのエネルギーミックス政策だけでは、産油国が日本に突きつけた「日本は非友好国の扱い」と言う深刻な問題の解決には役立ちません。アラブ側は原油輸出相手国をパレスチナ問題について「敵対」「中立」「友好」に分類し、全面輸出禁止、部分的ボイコット、正常な供給継続かを決定していく、としました。そこにおいて日本は少なくとも、「友好国でない」扱いをうけたのです。その結果サウジアラビア、クウェート両国は毎月5%供給削減、合計10%削減して行くことをAOCに通告したのです。
 アメリカは、キッシンジャー国務長官を中心に、「石油消費国同盟」構想で対抗することを考えており、日本もそれに加わることが要請されました。日本は日米安保の基に経済発展に専念してきた背景があり、日米安保にヒビを入れるわけにはいきません。かと言ってアメリカの構想に無条件で入ることは、日本と産油国との間で築いてきた友情と信頼を裏切ることにもなりかねませんし、関係に決定的な亀裂を入れる可能性があります。サウジアラビアが日本に突きつけた「非友好国扱い」という通告の意味は大変重かったのです。
 現に産油国は日本の資源外交の原則を迫っていました。すなわち①日本が原油直接取引を確保するためには産油国の工業化、経済建設への協力を必要とする。②パレスチナ問題を含めた中東政策を確立すること。産油国側は市場原理より資源外交の原則の方が上位にあることを日本に迫ったのでした。

三木ミッションーサウジアラビア・ファイサル国王との会談

 この難問打開のため、田中総理は三木武夫副総理を長とする特使を派遣することとなりました。私はアラビア語通訳として同行しました。12月10日から中東8カ国の旅が始まったのです。(詳細は片倉邦雄『アラビスト外交官の中東回想録』明石書店、2005年、59-66頁)
  いよいよアラブ産油国の雄サウジアラビアのファイサル国王との会談となり、こちらの少人数の膝詰め(テタ・テット)会談形式を国王は受け入れてくれました。リヤード王宮大広間での会談は、先方はファイサル国王、アブドル・ワハーブ王室儀典長、当方は三木武夫特使、髙杉幹二駐サウジアラビア大使、双方向通訳として私とアラビア語専門官の塩尻宏で行われました。
 三木副総理は「アラブ産油国の今回の供給カットの措置は、日本の先進工業国としての発展に多大な打撃を与えるのみならず、日本が経済援助を行っているアジアの開発途上国に悪影響を及ぼし、ひいては共産主義の浸透を招く恐れがある」という論旨を展開しました。
 ファイサル国王はうなずきつつ聴いておられました。国王は、米国の後ろ盾によるイスラエルのアラブ領土占領を非難しました。特に聖地エルサレムが解放され、イスラーム第三の聖なるモスク、アクサ-・モスクで自分がお祈りできることを希求している、と述べられました。そして最後に「日本は我々にとって『友好国』である」と述べられました。
  一対一の膝詰め談判、アジア人同士「話せば分かる」を実感する良き会談であったと思います。今では伝家の宝刀「アラブ・ボイコット」も過去のものとなりました。「油の一滴は血の一滴」という言葉がありますが、アラブ産油国側に言わせれば、文字通り油は彼らの血なのであり、単なる商品ではないのです。需給により売買される場合には市場原理に基づくとしても、国の存立を左右する重大資源なのです。資源外交=資源安保であることが常識となった今日でも、なおこの時の教訓は大切に引き継ぐべきと思います。

湾岸危機

 1990年8月2日はアラブの独裁指導者フセイン率いるイラク軍が、突然、同じアラブの隣国クウェートを侵略し、併合するという重大事件が起こりました。湾岸危機です。今年8月で31年目を迎えます。
 ベルリンの壁が崩れ、ようやく東西冷戦が終わる、そして新しい平和な国際秩序が始まると世界中の皆が希望を胸にいだきはじめた矢先の出来事でした。国連は緊急安全保障理事会を開き、イラク軍のクウェート侵犯を強く批難し、即時無条件撤退を要求する決議を採択しました。(国連決議第660号)
 アメリカのブッシュ(父)大統領(当時)はクウェートの旧宗主国であるイギリスのサッチャー首相(当時)と会見し、7日には米軍戦闘機と空挺部隊4000人の兵士が派遣され、ブッシュ(父)大統領(当時)はテレビを通じて国民に告げています。
 それに対しイラク革命評議会はクウェートを併合して19番目の州とすると宣言しました。その翌日9日には「イラク滞留中の外国人全員の出国を禁じ、クウェートにある外国大使館を8月24日までに閉鎖する」と発表します。人質作戦の開始でした。

クウェートにいる日本人246名

 私が大使としてバグダードに赴任したのは1990年5月12日でした。1980年からの8年に亘るイラン・イラク戦争が終結し2年が経過していたものの、イラクはその戦争に費やした損失をめぐり湾岸諸国(GCC)に要求した補償をめぐり紛糾していました。情勢は次第に緊迫し、きな臭くなっていくのを感じていました。そんな中、遂に8月2日イラク軍が大挙クウェートに侵攻したのでした。
先ずはイラク在留日本人を国外に退避させることに腐心しました。8月11日には71人、13日には60人が出国しました。しかし14日には日本人も英米人と同様出国を認めない、とのイラクの方針が通告されました。
 東京の外務本省ではイラク・クウェート情勢対策本部が設置されました。クウェートにいる日本人246人は7日午後4時までに大使館に退避したとのこと。しかし16日、クウェートのイラク占領当局は8月24日を期限としてクウェートにある全外国大使館の外交特権を奪う、と通告を発したとの情報が伝えられました。クウェート大使館とこちらのイラク大使館とは無線電話を通じ往復通信を行い、おおよその輪郭がつかめるようになり、そこで日本本省の訓令・指示もイラク大使館経由のチャネルでクウェ-ト大使館に伝達されることとなりました。
 17日、イラクのサーレハ国会議長は、「敵対国の国民を『ゲスト』にする決定となった」と発表しました。「ゲスト」とはズバリ言えば人質ではないか?しかし適用状況を見てから慎重に判断すべきとの気持ちもありました。しかしそうであればどう対処すべきか?
18日、バグダード日本人会連絡会は真剣な討議を行いました。その結果、クウェート在留邦人を所属企業系列ごとに空路でバグダードに受け入れ、バグダード経由で出国させる以外に現実的方策はない、との方針を固めました。
 危機発生以来、駐クウェート日本大使館に匿われ炊き出しなど集団生活をしていた進出企業関係者、家族、旅行者など二百数十名は、イラク占領軍の指示で、バグダード経由で出国できるとの約束の下に、イラクに移送されて来ました。しかしこの約束は破られました。8月末には『「ゲスト」』として戦略地点三十数か所に分散抑留されてしまったのです。私は大統領側近、外務次官(元駐米大使)ニザール・ハムドゥーンに会い、人質政策を抗議・批判し激論をかわしました。(詳しくは片倉(2005)151頁) 
 サラディンが十字軍と戦ったとき、敵の捕虜、女性子供などを寛容に遇したことを挙げて、「サラディンの誇りはどこにある」と批判しました。その激論の効果があったかどうかは不明ですが、26日イラクは女性、未成年者の解放を発表しました。9月1日、日本人女性・子供70名は無事イラク航空で出国し、ヨルダンのアンマンヘ飛び立つことができました。

ぎりぎりの危機管理と人質解放への手立て

「『ろう城』に備えトリあえず?飼育」『朝日新聞』1990年11月10日
「『ろう城』に備えトリあえず?飼育」『朝日新聞』1990年11月10日



 邦人人質の早期解放のため、奮闘の日々は続きました。日本大使館のわれわれは、米国などとの国際連帯の立場から、公的には人質解放のため個別的に動くことはできない、との本国政府の立場に直面していました。一方、現場としては、あらゆる手立てを尽くして一人でも多く人質解放を実現する手はないかと日夜呻吟していました。「どちらをとってもリスクがある。より少ないリスクを瞬時に選択するほかない」と割り切った末、長期籠城に備えて大使公邸の中庭にニワトリやホロホロ鳥、ウサギなど飼い始めたのもその頃です。(『朝日新聞』1990年11月10日)そんな窮状を知り、非政府の立場で人質の早期解放のため腰を上げてくださったのが、中曽根康弘総理(当時)、参議院議員モハンマド・アントニオ・猪木さんらでした。

駐UAE大使時代、PLOアラファト議長との会談写真(1987年、UAEアブダビにて)
駐UAE大使時代、PLOアラファト議長との会談写真(1987年、UAEアブダビにて)

 11月3日、中曽根総理を団長とする佐藤孝行氏ら自民党代表団がバグダードに到着しました。4日、フセイン大統領との会見が実現しました。人質解放のために仲介の労をとってくれたのはパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長でした。国連から侵略者の烙印を押されて孤立していたイラクの肩をもっていたのは、僅かアルジェリアとパレスチナぐらいでした。たまたまバグダードにきていたアラファトのバックアップもあって、中曽根―フセイン会談がセットされました。私が駐UAE大使をしていた時に、アラファト議長と会談していたことが多少役立ったのかもしれません。

 フセインはイスラエルのパレスチナ占領地からの撤退と引き換えに、イラク軍のクウェートからの撤退を示唆する奇策を持ち出していましたが、ひょっとするとアラファトはこの訪問時に、フセインの耳にこのアイデアを吹き込んでいたのかも知れません。
中曽根総理は三回、延べ4時間40分にわたりフセイン大統領と会談しました。「テタ・テット」の会談で、人質を何人連れて帰られるかという最後の微妙なやり取りをされました。このとき、フセインはいつも腰に差している拳銃を脇のテーブルにおいて話し合いをおこなったそうです。後に中曽根総理は、江戸城明け渡しの西郷・勝会談のような雰囲気だった、と語っておられました。最終的にミッションは、中高年の人質を中心に在留日本人計74人を連れ帰ることに成功しました。
 しかしその後、人質解放の動きはピタッと止まってしまいました。

人質解放

人質全員解放を報じた1990年11月19日毎日新聞夕刊
人質全員解放を報じた1990年11月19日毎日新聞夕刊

 猪木さんはユニークな発想の人でした。プロレス、バスケ、凧揚げなど文化スポーツ行事をバグダードで企画されました。「これら色彩豊かなイベントが行われているうちには戦闘開始にならず、人質の命は安全」という彼のユニークな発想から、何度もバグダードを訪問されました。
 武力制裁発動へのカウントダウンが進んできた頃になると、私は大使館でじっとしていられなくなりました。南部バスラの石油関連施設数か所に邦人人質が収容されているという情報を得ていたので、かれらの所在と安否を確かめるため、石油関連施設を訪れました。
 何年か前JICAの専門家招待で日本に滞在したことのある工場長の応対を受けました。既に臨戦態勢にあり警戒厳重の中、工場長は日本滞在の楽しい経験を語った後、工場見学という粋な計らいで、自由に使ってくれと車を提供してくれました。そのお蔭で私たちは工場の敷地の一角で、ソフトボールをやっている日本人や欧米人の人質を発見し、有刺鉄線越しに話を交わすことができました。何人かの安否、待遇状況など重要な情報を入手し、こちらからは日本食品、雑誌など差し入れをすることができました。われわれはこの工場長のことを「バスラの富樫」(歌舞伎勧進帳の中で弁慶と見破りながら見逃した関守富樫)と名付けました。こんなイラク危機の最中、アラブ人の心には日本人の心と通じ合うところがあることを知らされ、心に残っています。
 11月18日イラク革命評議会は「人質の全員解放」を発表し、イラクとクウェートの人質全員をクリスマスから3ヶ月間に段階的に解放する、と明らかにしました。但し「平和的雰囲気を損なうことが起きなければ」との条件が付けられており、19日からパリで開かれる全欧安保協力会議をにらみながら人質解放と引き替えに武力行使の動きを封じる狙いがあると推測されました。ただ人質解放措置の理由の一つとして「善意の人々からの要請」をあげ、中曽根元首相、ブラント元西独首相等のバグダード入りに言及していたことは、人質解放の前途に予断を許さぬことには変わりないとしても、希望の光が見えたことは確かなことでした。

武力行使容認決議

 11月29日、国連安保理事会はイラクに対しクウェートからの撤退を促す最後の機会として、1991年1月15日を期限にあらゆる必要な手段を行使する権限を与える事実上の武力行使容認決議(678決議)を賛成多数で採択しました。
フセイン大統領は国連決議案採択直前の29日夜、国民議会で演説し「安保理の動きを非難すると共に、敵が戦争を仕掛けてくるならば、我々は断固戦う」と徹底抗戦を宣言しました。一方、ブッシュ大統領は30日ワシントンでの記者会見で、12月中旬以降、米・イラク外相の相互訪問を提案したことに関し「イラクのクウェートからの完全撤兵、クウェート正統政権の復権、全人質の解放」を達成できないような討議を行うものではないと述べました。
 このブッシュ提案をめぐり12月4日ヨルダンのフセイン国王、イエメン副大統領、アラファトPLO議長とサダム・フセイン、イラク大統領は集まりを持ったようです。
 12月6日、フセイン大統領はイラク、クウェート国内に拘束、滞在している外国人全員の出国を認めるようイラク国民議会に提案する、との声明を発表しました。

湾岸戦争―「砂漠の嵐」作戦

 イラクが全人質の解放を発表したことに対し、アメリカ・ブッシュ(父)大統領は「このことによりイラクが国連決議に100%無条件で従う必要があるとの考えを変えることはない」と語り、イラクの即時・無条件・完全撤退要求を貫く姿勢を強調しました。
 湾岸協力理事会(GCC)は12月26日、ドーハで首脳会議を開き、イラクのクウェートからの無条件撤退とクウェートの正統政府の復帰を求める「ドーハ宣言」を採択。1月6日にはサウジアラビア、エジプト、シリア3国外相は「クウェートの武力併合を正当化するため、パレスチナの大義を振りかざすイラクの努力は認められない。冒険主義的な政策を続けるイラクには中東問題の解決や安全保障問題を話し合う資格はない」とするコミュニケを発表しました。ギリギリまで戦争回避の瀬戸際折衝がなされましたが、イラク撤退は期限切れとなり、国連調停は打ち切りとなりました。
 1991年1月17日午前2時、アメリカのシュワルツコフ司令官とサウジアラビアのスルタン・アジズ国防大臣指揮の下、湾岸戦争の火ぶたは切られ、米はトマホークとF15戦闘機でのイラク爆撃(「砂漠の嵐」作戦)を開始しました。
 2月24日午前4時、多国籍軍は地上、海上からの全面侵攻がなされ、地上戦が開始され  ました。クウェートに最初に足を踏み入れた多国籍軍の中にはサウジアラビアで軍事訓練を受けた4000人のクウェート兵が含まれていました。イラク軍はクウェートから敗走する直前に700本以上の油井を爆破・炎上させるとともに、クウェート市民を戦争捕虜として連行しました。
 一方的敗退の中、26日国営イラク放送はイラク軍撤退を命じる声明を伝えました。
 この日、クウェートは解放され、湾岸戦争は終結しました。

10年ごとに繰り返された中東の激動

 湾岸危機―湾岸戦争後も中東の激動は続きました。中東・アフリカに張り巡らされたアルカイダ(基地)によるテロが各地で勃発し、2001年の9・11アメリカ同時多発テロは世界を震撼させることとなりました。アメリカ・ブッシュ(子)大統領は「テロとの戦争」を宣言し、アフガン戦争、イラク戦争と続きました。アフガン戦争はともかくとしても、イラク戦争は誇り高いアラブ民族にとって、アメリカ型の民主主義の押しつけと受け取られました。その流れから見れば、アラブの春はイスラーム型の民主主義を希求する変革運動でした。しかしイスラーム思想の内にある「ジハード(聖戦)」を間違って実践したIS(イスラム国)は多くのアラブ諸国に内戦を惹起し、世界に無差別テロの恐怖を与えました。
 イラク新政権の要請の下に、米国は国連の支持を得て有志連合を結成し、約3年でISは事実上崩壊の運命をたどります。しかしながら、イスラームの本質であり伝統として築き上げてきた、平和と寛容の精神、「ディワニーヤ(車座の話し合い:イスラーム型民主主義)」は大きく傷つきました。

2020年9月15日、イスラエルとUAE、バハレーン国交正常化合意。於ホワイトハウス(ITV NewsのYou Tubeより)
2020年9月15日、イスラエルとUAE、バハレーン国交正常化合意。於ホワイトハウス(ITV NewsのYou Tubeより)

 2020年9月、イスラエルとUAEおよびバハレーンとの国交正常化が合意されました。長い目で見れば、中東の平和が一歩前進したとも言えるでしょう。しかしこれらの合意を手放しで喜ぶことはできません。果たしてイスラエルとパレスチナの二国共存を前提とした中東和平にどれだけつながるのか?にわかに判断しにくいところです。共同声明によれば、イスラエルは計画されていた占領地ヨルダン川西岸の一部併合を凍結すると言っています。パレスチナ人のことが置き去りにされずに解決に進んでほしいものです。

中東平和と中東和平における日本の役割

 UAE、バハレーンにしてみれば、自国に少なからぬシーア派の人々を抱えながら、メソポタミア半月地帯からシリア経由、究極的にはレバノンのヒズボッラ勢力に繋がるシーア派ベルトの元凶、イランと対峙しなければならない現状としてやむを得ない外交的選択と言えるでしょう。また新兵器供与など、米国の後ろ盾を必要とし、ポスト・オイル時代を控えて経済的、技術的発展にイスラエルから先端技術の協力を得ることは不可欠との判断から、「アラブの大義」の旗を降ろしても、この措置に踏み切らざるをえなかったという事情があったと推測されます。
 日本としてはパレスチナ・ユダヤ民族の二国家共存が残された唯一の方法と考えてきました。その前提でパレスチナ難民援助―国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への拠出では常にリードしてきましたし、2003年ぐらいから現地JICAによって母子健康手帳の発給など、保健分野、ゴミ処理の改善など環境分野などの技術協力プロジェクトで「人を介する」地道な人道協力を展開してきました。
 更に、パレスチナ、イスラエルを取り囲む中東全域に視点を広げ、中東和平達成を究極目標として、日本独自の広角的プロジェクトを企画し、実行に移してきました。その具体例を二つ挙げてみましょう。

(1)スエズ「平和架橋」(写真-2002年完成したスエズ架橋を背景に片倉邦雄元エジプト大使)

外国の切手になったODA日本・エジプト友好橋:アジアとアフリカをつなぐ要衝に位置するスエズ運河は、従来はフェリーによる横断に依存していた。日本の無償資金協力によりスエズ運河架橋が建設されたことにより、スエズ両岸の往来が容易になった。橋の中央に日本とエジプトの国旗を描いた記念板が設置された。(外務省ODAホ-ムページより)
外国の切手になったODA日本・エジプト友好橋:アジアとアフリカをつなぐ要衝に位置するスエズ運河は、従来はフェリーによる横断に依存していた。日本の無償資金協力によりスエズ運河架橋が建設されたことにより、スエズ両岸の往来が容易になった。橋の中央に日本とエジプトの国旗を描いた記念板が設置された。(外務省ODAホ-ムページより)

スエズ運河架橋と片倉邦雄元エジプト大使(2002年)
スエズ運河架橋と片倉邦雄元エジプト大使(2002年)





















 エジプト、イスマイリア県カンタラ町を施工場所として、スエズ運河に全長9kmの斜張橋を架ける計画が立ち上がりました。総工費約117億円、日本6割、エジプト4割分担ベースで合意し、1995年より96年にかけて開発調査、97—98年に施工し、2001年10月に開通しました。橋はカイロを始点としてシナイ半島北部のガザ地区を経由、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、シリア、トルコなどに通ずるヒト、モノ、カネを交流させる大動脈として機能することが期待され、「平和架橋」と名づけられました。私は当時エジプトに駐在し、中東和平に役立つように、このプロジェクト合意のため尽力しました。

(2)「平和と繁栄の回廊(ヨルダン回廊)」

2006年10月4日、外務省報道発表
2006年10月4日、外務省報道発表

 このプロジェクトはパレスチナ、イスラエル、ヨルダン、日本の4者協議により進められているもので、パレスチナの民間セクターを発展させ、経済的、社会的自立を目ざす取組み―旗艦事業としてジェリコに農産物加工団地を整備し、近く稼働させる予定でした(2015年10月現在)。生産物をヨルダン、湾岸諸国へ輸出する計画で、中東地域の共存共栄に向けた中長期的取り組みになることが期待されました。ただ現状はパレスチナ企業の入居促進、海外市場への物流ルートの整備など、まだまだ多くの障害があり、二の足を踏んできましたが、最近のイスラエル―UAE・バハレーン間の国交正常化によって 順調に進捗することが期待されます。このような日本政府の取り組みは、長い目で見て二国家共存を前提にイスラエル・パレスチナ問題の根本的解決に通じるものと期待されます(成瀬猛「日本の中東政策と日本型国際協力の可能性―パレスチナ支援の経験を踏まえて」世界平和研究特集『平和構築と日本の課題』(2019年冬季)49~56頁)。

歴史から学ぶ日本の積極的役割

 先に挙げた二つの事例は日本の変わることのない中東への積極的アプローチであり、歴史的成果を積み上げてきています。米欧の軍事・外交力に任せるだけでなく、日本の防衛力の積極的責任とともに得意とする分野で中東の復興に貢献すべきです。
 日本の平和に対する価値観に対しては、米欧の評価のみならず、アラブ諸国の信頼も定着してきました。第一次オイルショックと湾岸戦争の頃、アラブ諸国の持つ日本に対する負のイメージ(油乞い外交、アメリカ追従)はほぼ払拭されました。
 今こそ日本は中東平和建設に進出する時を迎えていると思います。日本は独自の広角的視野に立ち、日本らしくソフトパワーを駆使して、さらに「中東和平の装置」構築を目指して努力していくべきでしょう。ポスト・オイル時代を迎えようとしている中東諸国にとっては、政治的野心のない日本と原油貿易だけでなく、外交、医療、科学技術、学術文化と、多分野に亘って重層的に交流を進めていくことは魅力的と感じるでしょう。
 日本文化とイスラーム文化はたまたま同時代に並行的に発展し、不思議な縁で結ばれているということです。聖徳太子と預言者ムハンマドは西暦七世紀初めの同時代人でした。イスラームのウンマ(国民国家)がユーラシア大陸の西端でサラーム(平和)理念を確立したころ、その東端で聖徳太子が17条憲法で「和を以て貴となす」という理念を打ち出しました。イスラーム文明においても、日本文明においても、それぞれ開かれた文明対話の契機が内蔵されているといってもよいでしょう。
 六十年を越えて再び迎えた中東からの熱風の如き日本への期待。日本の国内に迎えた中東の人々。相互の人的交流は大きく増大しました。この機運を政府は正しく認識して欲しいと思います。そして若い世代の方々はこのことを実感して欲しいと願っています。

(インタビュー談)

 

今尚エネルギー資源に大きなパーセンテージを占める中東原油と中東天然ガス


















片倉邦雄略歴

 1933年、東京生まれ。宮城県出身。60年、東京大学法学部卒、外務省入省。アラビア語研修官補としてロンドン大学、MECAS(英国外務省アラビア語研修センター)およびカイロ大学に留学。86年より89年まで駐アラブ首長国連邦大使、90年より91年まで駐イラク大使、91年より94年まで国際交流基金専務理事。同年8月より3年間駐エジプト大使。98年より第2回東京アフリカ開発会議(TICAD2)政府代表。99年1月外務省退官。同年4月から2004年3月まで大東文化大学国際関係学部教授。現在、日本アラブ協会副会長、・片倉もとこ記念沙漠文化財団評議員会議長。

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使用済核燃料問題解決方法としてトリウム熔融塩炉に社会的スポットライトを!

8月18日、山口県熊毛郡上関の西町長は、町として使用済核燃料中間貯蔵施設の建設に向けた調査を受け入れる考えを表明した。原子力アレルギーが強い我が国にあって、町の財政事情や経済効果を考えた上での判断とはいえ勇断だと感じる。

核燃料サイクルが確立されていない今日、軽水炉型原子力発電で出る使用済核燃料は中間貯蔵する必要がある。「トイレの無いマンション」と揶揄されるように、使用済核燃料は溜まる一方である。プルトニウムとウランを混ぜてMOX燃料にし、プルサーマルで再利用が進んだとしても、原子力爆弾の材料となるプルトニウムを消滅できるわけではない。

最近、世界中で次世代革新炉と呼ばれる小型原子炉の開発が進んでいる。昨年、ビル・ゲーツが共同設立したテラパワー社が進める原子力プロジェクトに三菱重工業と日本原子力研究機構が参画したことはニュースにもなった。

次世代革新炉の一つに熔融塩炉がある。米国オークリッジでは実験用溶融炉が1965-69年まで順調に運転した実績を持っている技術である。熔融塩炉という液体燃料が原子炉の中を流れるので、爆発することは原理的に考えにくい構造になっている。ウランに替えてトリウムを使うトリウム熔融塩炉は、単にプルトニウムを消滅するだけでなく、軽水炉よりも安全で低コストな発電を可能にする。実現すれば中間貯蔵問題を解決でき、安価なエネルギーを大量に安定供給してくれるという代物である。

将来的に核融合が実用化されるとしても、それまでは、使用済核燃料問題を解決しながら、安全、低コスト、安定した電力供給できる小型原子力発電の可能性を持つトリウム熔融塩炉に、一日も早く社会のスポットライトが当たることを願っている。  (季刊サラームNo36 2021年2月春季「第二の原子力時代の門を開くトリウム熔融塩炉」参照)

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