201611

–湾岸戦争終結後25年–

湾岸戦争が宗教戦争に転換しないため開かれた「イスラム教最高指導者会議」

サラーム会 会長 小林育三

電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2016年11月, 冬季号より

1990年10月21日、エジプト・カイロで「イスラム教最高指導者会議」が開かれた。その時はイラク軍がクウェート占領中であり湾岸危機の真っ只中であった。会議は文鮮明師(当時世界基督教統一神霊協会、現世界平和統一家庭連合創設者)によって主催された。文鮮明師は会議にメッセージを送り、湾岸危機が宗教戦争に転換しないよう宗教指導者特にイスラム宗教指導者に強くその責任を願った。

1.イラクのクウェート侵攻


イラク軍T-72型戦車。イラク軍通常戦闘用T-72 型戦車が湾岸戦争に投入された。

1990年8月2日午前2時、300台を越える戦車と10万人を擁するイラクの大軍がクウェート国境を侵犯した。クウェート陸軍による反撃が8時間繰り広げられたものの、イラク軍はその日のうちにクウェート全土を支配下に置いた。ジャービル・クウェート首長はダスマン宮殿から脱出し、サウジアラビアの避暑地ターイフに亡命政府をおいた。国連は即日安全保障会議を開き、イラク軍のクウェート侵犯を強く批難し即時無条件撤退を要求する決議を採択した。( 国連決議第660号)


クウェート軍の発砲にあい、装甲兵員輸送車の陰に隠れて進軍するイラク兵= 1990.8.3 讀賣新聞・夕刊

 サウジまで侵攻の動きを見せたイラクに対し、6日には米英仏ソによる軍の包囲網が形成された。7日には米軍戦闘機と空挺部隊など4000人の米兵が派遣され8日までにはサウジアラビアのダーラン基地に到着。その他の国から送り込まれた兵と合流し多国籍軍部隊を構成した。


3日イラク軍の侵攻に抗議し、カイロ市内をデモ行進するエジプト在留クウェート人=1990.8.4 讀賣新聞・朝刊

国連安保理が、「イラクのクウェート侵攻はアラブ域内の紛争である」との理由からアラブ連盟にその解決を期待したことを受け、8日ムバラク大統領はイラクに対し即時全面撤退とジャービル首長復権を条件とする「話し合いによる解決」を呼びかけた。しかしイラクのサダム・フセイン大統領が8月9日「クウェートはイラクの第19番目の州」とする併合宣言をしたことにより、話し合いによる解決の道は閉ざされた。

2.湾岸危機に際してのアラブ連盟内の攻防

アラブ連盟はアラブ民族主義の高まりを受けアラブ諸国間の地域協力機構として1945年3月に結成された。1963年からはエジプト・ナセル大統領の提唱によりアラブ首脳会談が開かれるようになった。


キャンプデービッドでの12日間の秘密交渉の末、1978年9月17日エジプト、イスラエル両首脳はカーター米大統領の仲介で合意書に調印した。写真は同9月7日海兵隊のパレードに臨む3首脳。左からメナヘム・ベギン、ジミー・カーター、アンワール・サダト

1978年9月キャンプ・デービット合意が成され、エジプト・サダト大統領とイスラエルの首相メナヘム・ベギンとの間で、両国の停戦と相互承認が締結された。アラブ連盟の対イスラエル共通政策であった「和平せず、交渉せず、承認せず」は連盟主導国によって崩された格好となった。このことによって1979年、エジプトはアラブ連盟を追放され、連盟本部もチュニジアのチュニスに移転された。


カイロで開かれていた緊急アラブ首脳会議は1990年8月10日、イラクのクウェート侵攻に対し、アラブ合同軍の派遣を含む7項目の決議を採択して閉会した= 1990年8月11日付 毎日新聞・夕刊

1990年にはエジプトが連盟に復帰され本部もカイロに戻ったものの連盟内部には深刻な対立が存在したままであった。

8月9日のイラクの「クウェート併合」声明に対し国連安保理は全会一致で無効を決議した。

8月10日開かれた緊急アラブ首脳会議では、アラブ合同軍の派遣や対イラク経済制裁、クウェートのジャービル首長政権の復活、米軍・多国籍軍のサウジ駐留等7 項目が賛成多数で採択された。賛成は、エジプト、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、オマーン、バーレーン、シリア、モロッコ、ソマリア、レバノン、ジプチの12カ国。反対は、イラク、リビア、PLO。保留はヨルダン、スーダン、モーリタニア。棄権は、アルジェリア、イェメン。不参加はチュニジアであった。

会議は怒りに満ちた応酬が交わされ大荒れであったと伝えられた。それでもアラブ域内での自主解決を目指たアラブ首脳会議として開催されたことの意義は大きく、かつ7項目を過半数を越える賛成多数で採択したことは、アラブ諸国が国連安保理決議と歩調を合わせたことを公式に表明することとなった。アメリカのブッシュ大統領は直ちに「決議を歓迎する」との声明を発表した。

同日、ジャービル・クウェート首長からブッシュ大統領へ、米政府が対イラク制裁を実行に移すよう要請した書簡が送られた。米はこの要請を「経済制裁を即時かつ効果的に実行に移す法的な裏付け」とし、「ブッシュ大統領は必要な限りあらゆる措置を実行に移す決断をした」として、イラクの海上封鎖に踏み切る方針を表明した。

同日10日、アラブ合同軍第一陣としてエジプト兵3000人がサウジアラビアに到着した。

3.イラク政権の本音とサダム・フセインの大衆的人気

1979年イランはイスラム原理主義の風潮を背景とし、過激なイスラム主義者の主導によるイラン・イスラム革命を実現した。革命の成功はアラブ諸国内のイスラム原理主義者を刺戟し一層過激化させるきっかけとなった。


イラン・イラク戦争を開始した1980年時点のサダム・フセイン大統領

イランに隣接しシーア派を抱えるアラブ諸国は「イスラム共和革命の輸出」を潜在的脅威と捉えた。GCC(湾岸協力会議)が1981年5月に結成されたのもその脅威に対備するためでもあった。

この潜在的脅威を最も抱えていた国は実はイラクだったのである。イラクはイランと陸続きの国境を接するだけでなく国内に60%ものシーア派を抱えていたからである。しかも政権基盤となるスンニ派は2割であり、残る2割はクルド民族への帰属意識が強く政権に対し批判的であった。フセイン政権はバース党の一党独裁であり、さらに軍、警察、党の中枢を親族と生まれ故郷のティクリット出身者で固め、秘密警察によってコントロールされていたのであった。したがってその政権体質はスンニ派の原理主義者の支持するものでもなかった。

サダム・フセインはこのような自己の脆弱な政権基盤を強固にするためイラン・イラク戦争を打って出たというのが本音であろう。‘イスラム革命の輸出という潜在的脅威’は格好の口実であった。つまり‘ 共通の脅威にさらされていた湾岸諸国のため’として振舞うことができたからである。

サダムの演出した‘イラン・シーア派に対抗したスンニ派・アラブの英雄’としてのポーズはアラブ連盟のイラク支持を取り付け、スンニ派アラブ諸国内の大衆にサダム人気を築き上げた。イラクのクウェート侵攻はイラン・イラク戦争が終わってわずか2年後のことであり、サダムのアラブ諸国内での大衆的人気は根強く残っていた。

4.追い詰められたサダムの戦略:‘人間の盾’と‘イスラエル・リンケージ’


クウェートを武力で併合し、在留外国人を「人質」にしているイラクに対し、国連安保理事会は8月25日未明、限定的武力行使を認める決議を圧倒的多数で採択した= 1990年8月26日付朝日新聞・朝刊

8月17日、イラクは多国籍軍に包囲され経済封鎖に締め付けられる状況に対抗するため‘人質作戦’を宣言、24日にはクウェート国内の各国大使館をイラク軍が包囲し、「特権消滅」を通告した。国連安保理事会は25日、「制裁の実効を確保するために限定的な武力行使を認める」決議を圧倒的多数で採択した。

人質作戦は多国籍軍がイラク国内の攻撃目標とする建物に人質を配備し‘人間の盾’として攻撃を抑止する戦略である。この戦略によって攻防は長期戦に持ち込まれざるを得ない状況となった。

またサダム・フセインはクウェートからの撤兵条件としてアラブ地域における外国軍部隊の撤退を主張した。具体的には1967年第3次中東戦争以降イスラエルが占領している地域(ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原)からの撤退要求を主張した。つまり「国連がクウェートからのイラク軍撤兵を言うならば、同じように国連はパレスチナにおけるイスラエル占領地からのイスラエル兵の撤収を要求すべきだ」という‘イスラエル・リンケージ’と言われる戦略を展開したのである。そしてパラスチナとアラブの大衆に向かっては、‘西欧諸国とシオニストに対抗するアラブの統一’を訴え、異教徒との「聖戦」を呼びかけたのであった。


カイロのアラブ連盟本部で開かれている会議

アメリカ・ブッシュ大統領は「イラクが国際社会からの孤立を避けるための新たな企てに過ぎない」とし、「湾岸危機と‘パラスチナとイスラエルの対立’は切り離すべき」との声明を発表し、フセインの撤退条件を断固拒否した。

またチュニスで開かれた10月20日のアラブ外相会議ではイラクの主張に対抗し「湾岸危機をパレスチナ問題とリンクさせることは間違っていることを確認した」と発表した。(エジプトの政府系紙アル・グムフリア)

5.ジャービル首長の国連演説とジッダでの国民会議


1990年9月27日、ニューヨークの国連で演説するジャービル・クウェート首長。自国のイラクからの解放を懇願し、国連がイラク制裁を継続支持することを求めた(2000年2月28日在日本クウェート国大使館発行「クウェイト」67頁)

9月27日、ニューヨークの国連総会でジャービル首長は演説した。首長は国際社会のクウェート支持に深く感謝の意を表するとともに「主権を有する独立国であり国連加盟国が武力によって占領・併合され抹殺されようとしている。一国の命運が国連の掌中にある」としてクウェートの解放を訴えた。

10月13日から15日、ジャービル首長はジッダにおいて国民会議を開催した。会議には難を逃れてサウジアラビアに在留していたクウェート人、バーレーン、エジプト、シリア、ヨルダンに避難していたクウェート国民、1000人以上が参集した。ジャービル首長、サアド皇太子と各界各層の分野の参加者は、ジャービル首長を国民によって選ばれた首長として再結束し、祖国解放のための聖戦を一致団結して戦う決意を確認した。

6.‘イスラエル・リンケージ’戦略の危険な落とし穴


10月8日、エルサレム旧市街でパレスチナ人が暴動(讀賣新聞朝刊1990.10.9)

1990年8月12日、イラクのフセイン大統領は、イスラエルの占領地域からの撤退が、イラクがクウェートから引き揚げることの前提条件となる、と語った。

サダム・フセインはかねてより‘ダブルスタンダード論’を喧伝していた。ダブルスタンダード論は中東地域において「欧米はイスラエルに甘くアラブには辛い」という意味合いで浸透していた。サダムはこのダブルスタンダード論を国連決議に対抗する戦略として利用したのである。それが‘イスラエル・リンケージ戦略’であった。

サダムが指摘したイスラエルの占領地問題は解決すべき問題ではあるが、時代と背景と地域が異なるだけでなく、サダム・フセインの犯したクウェートの「侵略・併合」問題とは関係ない別問題である。にもかかわらず「国連がクウェートからのイラク軍撤兵を言うならば、同じように国連はパレスチナにおけるイスラエル占領地からのイスラエル兵の撤収を要求すべきだ」との主張を強弁し続けたのである。当時ヨルダン川西岸地区内ではイスラエルとパレスチナとの間に緊張状態が続いており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地において不測の事態が発生する危険性をはらんでいた。サダム・フセインの狙いは、エルサレムにおいて不測の事態が発生し暴動がおこり、更にはPLO が軍事的蜂起をすることであったと推測される。そのような事態になれば、湾岸危機が‘ ユダヤ・キリスト教対イスラム教’ という構図の宗教戦争へと転換する恐れがあったのである。


1990年10月8日、エルサレムの神殿の丘で衝突が起き、インティファーダ最悪の流血の日となった。パレスチナ人がユダヤ人過激派の神殿建設計画に抗議、イスラエル警察が発砲、パレスチナ人20人以上が死亡、多数の負傷者を出した。

サダム・フセインはイスラム教の聖地メッカを擁するサウジアラビアに配備された多国籍軍を、「聖地メッカが米国とシオニストの手に落ちた」と主張したり、十字軍戦争を想起させるかのごとくエルサレムでの‘聖地奪還の聖戦’を呼びかけたりして‘アラブの統一’を訴えた。彼の一連の主張を通し‘イスラエル・リンケージ’戦略がいかに危険な落とし穴であるかをうかがい知ることができるのである。

彼は最後の最後までこのことに対する期待を持ち続け、1991年1月17日から開始された湾岸戦争の期間中、イスラエルに38発ものスカッドミサイルを発射したのであった。

7.「イスラム教最高指導者会議」における文鮮明師のメッセージ


1990年8月18日サンフランシスコで開かれた第2回世界宗教議会で創設者メッセージを語る文鮮明師

クウェートを占領したイラク軍と対備された多国籍軍との軍事的衝突の危機が高まる中でサダム・フセインの展開した‘イスラエルリンケージ’戦略は不穏なパレスチナ情勢を抱える中で不測の事態が発生する危機感を日増しに高めつつあった。そのような中で1990年10月21日、文鮮明師は「世界宗教議会」の一環として「イスラム教最高指導者会議」をエジプトのカイロで開催した。シリアのイスラム法典最高審議官アーマド・クフタロ師をはじめ各国のイスラム教代表者18人が集まった。

韓国の世界的宗教指導者である文鮮明師は会議の主催者としてメッセージを送った。

メッセージは湾岸危機を念頭に置いたものであり、湾岸危機が宗教戦争へ転換しないようイスラム宗教指導者の責任を強く求めた内容であった。

要約すると、①平和の根は神であり、神のみ旨に従うものだけが平和を実現できる。反対にサタンは人類破滅へ向かう最後の攻撃として宗教間と人種間の戦争を敢行しようとしている。②中東に地球最大の緊張感が漂う理由は、中東が神とサタンの闘争地帯だからである。③すべての宗教人は人種・宗教紛争を好む悪の勢力を拒否し、全世界の平和を目指す神のみ旨を広める使命がある。④イエスもムハンマドも自己犠牲と受難を超えて勝利したように、神の不変の正義は、一国の利益よりも全世界の利益のために向けられること。④宗教戦争が起こるかもしれない現時点で平和のための最大の責任は宗教者にある。

8.イスラム宗教指導者の基本見解


聖典コーラン

上述の「イスラム教最高指導者会議」の内容についての資料を得てはいないが、湾岸危機当時におけるイスラム教指導者の見解を紹介するワシントン・タイムズ社説「Saddam and Islam」を引用しつつイスラム宗教指導者の基本見解を紹介する。(1991年1月24日付けワシントン・タイムズ社説‘Saddam and Islam’)

  
アズハル大学:970 年に設置された世界最古の大学。現在は一般大学としての機能も有する、スンニ派の最高教育機関としてスンニ派の総本山としての権威を持つ。当時のアズハル大学総長、グランド・イマーム、ガダル・ハク師

「もしイスラム信者同志が争うようになった場合、両者の和解に努めなさい。もし、両者のうち一方が他方に不正をなしたのであれば、不正をなした方がアッラーの定めに従うまで戦いなさい。もし彼がアッラーのもとにかえってきたら、両者を正しく和解させなさい。そして、公平に扱いなさい。アッラーは公平さを望まれるのだ(コ ーラン49章9節)。

「イラクのクウェートに対する侵略」はコーランの掟を犯すものだと、イスラム教徒の最も権威ある宗教家が宣言した、と記されている。

またアズハル大学学長、グランド・イマームであるガダル・ハク師は「アラブ世界も非アラブ世界も、イスラム教徒も非イスラム教徒も、抑圧者(=サダム・フセイン)に侵略をやめさせようと努力してきた。抑圧者が応じることを拒否したのだから、戦争は許される」と語り、さらにサダム・フセインに対する戦争を真正面から支持する理由として、「イスラムの本当の敵は西側ではなく、不信人なものだ」との見解を示し「同じ神を信じるキリスト教徒やイスラム教徒と戦うことと、神も最後の審判の日も信じない異教徒と戦うことはコーランの中においても区別されている」としたうえで、サダム・フセインの社会主義独裁の根幹には唯物論があり、これを拒否する、と紹介している。

9.国連安保理、対イラク武力行使容認を決議、撤退期限1月15日


11月29日、国連安保理事会はイラクに対しクウェートからの撤退を促す最後の機会として、1991年1月15日を期限にあらゆる必要な手段を行使する権限を与える事実上の武力行使容認決議(678決議)を賛成多数で採択した(1990年11月30 日付中日新聞・夕刊)

11月29日、国連安保理事会はイラクのクウェートからの撤退を促す最終期限を1991年1月15日とし、それまでにイラクの撤退がなければあらゆる必要な手段を行使する権限を与える、という事実上の武力行使容認決議(678決議)を賛成12、反対2(イェメン、キューバ)棄権1(中国)の賛成多数で採択した。

フセインは断固戦うとして、対決姿勢を崩さなかった。その後ブッシュ大統領とフセイン大統領の直接対話が合意されたものの、イラクのイスラエルリンケージを固執する議題内容にはアメリカとの隔たりが大きく早期の実現は期待されなかった。イラクが全人質の解放を発表したことに対し、アメリカ・ブッシュ大統領は「このことによりイラクが国連決議に100%無条件で従う必要があるとの考えを変えることはない」と語り、イラクの即時・無条件・完全撤退要求を貫く姿勢を強調した。国連もパレスチナ討議を見送った。

GCC(湾岸協力会議)は12月26日、ドーハで首脳会議を開き「イラクのクウェートからの無条件撤退とクウェートの正統政府の復帰を求める「ドーハ宣言」を採択した。1月6日にはサウジアラビア、エジプト、シリア3国外相は「クウェートの武力併合を正当化するため、パレスチナの大義を振りかざすイラクの努力は認められない。冒険主義的な政策を続けるイラクには中東問題の解決や安全保障問題を話し合う資格はない」とするコミュニケを発表した。

ギリギリまで戦争回避の瀬戸際折衝がなされたが、イラク撤退は期限切れとなり、国連調停は打ち切りとなった。アメリカも外交努力を断念し早期武力行使を示唆した。

10.湾岸戦争、‘砂漠の嵐’作戦


巡航ミサイル・トマホーク= 1991年1月18日付毎日新聞・朝刊

多国籍軍68万、イラク軍54万。1991年1月17日午前2時、アメリカのシュワルツコフ司令官とサウジアラビアのスルタン・アジズ国防大臣の指揮の下、湾岸戦争・砂漠の嵐作戦の火ぶたは切られた。米はトマホークとF15戦闘機によるイラク爆撃を開始した。撤退期限後18時間のことであった。多国籍軍はハイテク技術を駆使し空爆により対イラクの制空権を即日ほぼ掌握した。一方ヨルダン国境沿いの一連のミサイルサイトをほぼ完全に破壊したと思われたが、1月18日19日に、イラクのミサイルがイスラエルを攻撃した。世界はイスラエルの出方を見守っていたが、イスラエルは報復を自重した。報復か自重かの攻防はその後も続くが、イスラエルは最後まで報復をしなかった。

2月24日午前4時、多国籍軍は地上、海上からの全面侵攻が為され地上戦が開始された。クウェートに最初に足を踏み入れた多国籍軍の中にはサウジアラビアで軍事訓練を受けた4000人のクウェート兵が含まれていた。イラク軍はクウェートから敗走する直前に700本以上の油井を爆破・炎上させるとともに、クウェート市民を戦争捕虜として連行した。

一方的敗退の中で26日国営イラク放送は、イラク軍撤退を命じる声明を伝えた。クウェートの事実上の解放であった。またこれまで主張してきたパレスチナと湾岸問題のリンケージに対しても、「直接結び付けない」との立場を表明した。このことにより40日目にしてイラクは事実上敗北した。


対露接近強めるトルコの綱渡り外交

–IS掃討でシリア北部に侵攻–

ジャーナリスト 本田隆文

トルコは、シリアとイラクでの過激派組織「イスラム国」(IS)掃討作戦で攻勢に出ている。シリアのクルド人勢力、イラクのイスラム教シーア派勢力への牽制とみられる一方で、その背景には、シリアへの軍事介入を強めるロシアとの関係改善があるようだ。一方で、対露接近は対米関係にも微妙な影を落としている。

トルコ、ロシアと外交関係修復

トルコは、昨年11月のロシア軍機撃墜をめぐって悪化したロシアとの関係を今年6月に修復した。同月、イスラエルとも、関係を回復させるなど、外交政策を転換させた。イスラエルとは、2010年にトルコのガザ支援船がイスラエル軍の急襲を受けトルコ人10人が死亡した事件を受けて断交していた。

外交の転換は、ロシアの制裁による経済への圧迫も一因であろうが、対露接近により、クルド人が勢力を拡張するシリア北部への介入の糸口をつかみたいという思惑もあったはずだ。


トルコのエルドアン大統領との関係を修復したプーチン大統領。

トルコのエルドアン大統領は8月9日、ロシアを訪問し、サンクトペテルブルクでプーチン大統領と会談した。ロシア軍機撃墜事件以降で初のロシア訪問で、両国の関係改善を印象付けた。

7月にはトルコでクーデター未遂事件が発生、死者は200人を超えた。経済的な損失は1000億㌦ともいわれ、政治的、経済的に大きな痛手を負った。それに対し米国は、エルドアン政権の強圧的な取り締まりに懸念を表明、対米関係は悪化した。一方のプーチン大統領はエルドアン大統領の対応を称賛し、「トルコの民主主義」を支援するとまで言った。

ロシア軍機撃墜事件後、トルコを「テロリストの共犯者」と非難し、経済制裁を発動していたロシアとは思えない豹変ぶりだ。

イランとの関係改善はIS掃討をめぐる外交戦術

一方でトルコは、イランとの関係改善も進めている。

トルコは、イラクで、シーア派国家イランの支援を受けたシーア派政権が支配を強めていることを警戒している。ロシアだけでなくイランにも接近していことは、米国、欧州諸国に対する牽制とみることができよう。だが、ロシア、イランとは、シリア内戦、IS掃討をめぐって利害が対立する部分もあり、今のところは戦術的な関係構築とみるべきだろう。

イランはシリア内戦にもアサド政権支援で介入しており、トルコのロシア、イランへの接近が、シリア内戦にも影響を及ぼすことは確かだ。反アサド政権を明確にし、対IS作戦で米軍のインジルリク空軍基地使用を認めてきたトルコだが、シリア内戦への対応で煮え切らない欧米に見切りをつけた可能性もある。

トルコ軍、シリア侵入の意図

その大きな要因となっているのがシリア内のクルド人勢力だ。

クルド人勢力は、2014年以降、IS掃討で活躍している。地上軍を送れない米国は、対IS作戦でこのクルド人勢力に頼るところが大きい。


シリアのクルド人民防衛部隊(YPG)の女性兵士たち。シリア民主軍(SDF) は2015年10月12日にシリアのクルド人民防衛隊(YPG)を主体として結成。

2014年から15年にかけてシリア北部アインアラブをめぐるISとの攻防で、大勝利を遂げたことで、米国からの信頼を得、米軍の支援を受けている。

2016年8月にはシリアのクルド人勢力を主体とする「シリア民主軍(SDF)」が、IS支配下にあった北部の要衝マンビジュを制圧した。このことがトルコを刺激した。

マンビジュはトルコ国境に近く、ユーフラテス川西岸の町だ。東岸にはクルド人地区があり、北にはISが支配するジャラブルスがある。

トルコ軍は8月24日、シリアに侵入し、シリア反体制派武装組織「自由シリア軍」とともに、ジャラブルスを奪還した。戦車10両以上を投入した本格的な侵攻だ。トルコは、ISを駆逐し、反体制派の支配を確実にするためとしている。だが、マンビジュ制圧で勢いを増すSDFがジャラブルスにまで勢力を拡大する前にこの地を抑えておくことが主要目的だったとみられている。マンビジュの西方にもクルド人支配地域があり、東西のクルド地区がつながることを阻止するためだ。

トルコのウシュク国防相もクルド人勢力に対し、ユーフラテス川の東岸に戻るよう呼び掛け、実力行使も辞さない構えを見せた。

クルド人問題を抱えるトルコの国内事情

トルコは国内のクルド人組織、クルド労働者党(PKK)と1980年代から激しく対立、PKKをテロ組織とみなしている。これまでに双方の衝突で4万人以上の死者を出している。


クルジスタン労働者党(PKK)指導者ムラト・カラユラン。

トルコ政府はシリアのSDFなどクルド人組織をPKKと同一視しており、シリア国境沿いでSDFなどのクルド人組織が勢力を拡大することは断じて許さないという姿勢だ。

エルドアン大統領自身、シリア侵攻直後にシリアのクルド人組織「民主連合党(PYD)」やその軍事部門「人民防衛部隊(YPG)」の掃討の意思を明確にしている。

トルコとの関係を深めるロシアのプーチン大統領は9月10日、トルコのイスタンブールでエルドアン大統領と会談、改めて親密ぶりをアピールした。シリア問題では、アサド政権軍、ロシア軍が空爆を行っている北部アレッポへの支援物資搬入の必要性で一致した。さらに両国は、同日、ロシア産天然ガスをトルコ経由で欧州に輸出するパイプライン「トルコストリーム」の建設に関する協定を結んだ。この計画は、ロシア軍機撃墜事件を受けて凍結されていた。

ISの最大拠点イラクのモスル奪還作戦に加わるトルコの思惑

さらに、トルコ政府は、まじかに迫るイラクのモスル奪還作戦への参加も主張している。


改良型M16 を持ったペシュメルガの兵士。

トルコ軍はイラク北部に、ISと戦うクルド人治安部隊の訓練などを理由に駐留している。しかし、イラクは主権の侵害と撤退を求めている。

ISが支配するモスルの奪還作戦は米軍主導の有志連合中心に進められるが、作戦に参加することで、イラク北部への一定の影響力を維持することが狙いとみられている。

トルコのイラク介入は、シーア派の勢力拡大を牽制するためでもある。精強なクルド人民兵組織ベシュメルガとの連携は、そのためにも欠かせない。

トルコは、自国内とシリアのクルド人勢力には厳しい態度で臨む一方で、イラクで自治区を持つクルド人勢力とは連携している。また対露接近は、シリア内戦をめぐって米国、欧米諸国との関係に微妙な影を落とすなど、綱渡り外交が続く。

記事の続きは、電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2016年11月, 冬季号にて…