201605

日・クウェート首脳会談
平成28年5月13日


ジャービル・クウェート首相を出迎える安倍総理 (写真提供:内閣広報室)

儀じょう隊による栄誉礼及び儀じょう (写真提供:内閣広報室)



儀じょう隊による栄誉礼及び儀じょう (写真提供:内閣広報室)

5月12日,午後6時時15分から約65分間,安倍総理は総理官邸において,公式実務訪問賓客として訪日中のジャービル・クウェート国首相(H.H. Sheikh Jaber Al-Mubarak Al-Hamad Al-Sabah, Prime Minister of the State of Kuwait)との間で、日・クウェート首脳会談を行いました。(外務省HPより)

5月13日、「日・クウェート共同声明」が発表されました。

共同声明の骨子は日本文、英文ともに外務省のHP (以下のアドレス)を訪ねてください。
外務省HP:http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me2/kw/page4_002043.html
日本文骨子:http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000156347.pdf
英文骨子:http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000156349.pdf



サミットで「IS壊滅」のためのより深化した国際連携を

NPO法人サラーム会会長 小林育三

電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2016年5月, 夏季号より

5月下旬に開催される伊勢志摩サミットをメインとする一連の閣僚会議が始まった。世界が難題を抱える中、議長国日本が国際協調を深化させる成果を上げることを願って止まない。その第一は「核兵器なき世界」実現への道であり、第二は過激派組織「イスラム国」(IS)壊滅への道であると考える。本稿は後者について概観する。


ニューヨークの国連本部

民主共産の世界対立の終焉が示した人類の良心


会食するゴルバチョフとブッシュ(マクシム・ゴーリキー号内で)

第二次世界大戦後、世界は人類一家族理想に基づく超国家的世界連邦組織を模索してきた。それは時代の流れとして私たちの良心に根付き実現に向かうエートスを与え続けてきた。宗教と精神を尊重し優先する民主主義と唯物無神論に基づく共産主義との東西冷戦は1989年12月マルタ会談により終結した。結果米ソ2大国による世界核戦争は回避されたのである。その後ソ連は宗教の自由を認め、共産主義体制は終焉し、ソ連邦は崩壊した。

世界は国連を中心とするより理想的な超国家的世界連邦組織を希求する段階を迎えたと言えるのではなかろうか。


東西冷戦終結後の東欧の紛争


ブリュッセルのEU本部

第二次世界大戦後に多くの民族が独立国家となり国連加盟国は増え続けた。東西冷戦終結後は独立国家内の民族・宗教の対立に依る国家分裂、国境策定がなされ続けている。それはソ連邦の崩壊によりもたらされたロシア連邦とCIS独立国家群、続いて生じたユーゴスラビア社会主義連邦の分裂。これらは民族・宗教に基づく国家形成が熟さないなかで社会主義・共産主義イデオロギーによって形成された連邦国家としての紐帯が切れ、新たな民族・国家確立を求める動きとみなすことができよう。これらの国家は成熟に向かいつつ同時にEUへの参画を目指し、超国家的世界連邦組織の成立を肯定している。


ISによる一方的「イスラム国」国家樹立宣言

ISがイラクとシリアに跨る領域支配を背景に国家樹立宣言をなしたのは2014年6月のことであった。当時はロシアのクリミア半島領有に対し欧米による経済制裁が科せられた後だっただけに第一次世界大戦後策定された中東地域の国境が液状化するのではないかと危惧された。バルカン半島中部地域の国家分裂とは異なる中東イスラム圏地域の国家次元の分裂・対立が起こるのではないかとの危惧であった。

アメリカのIS対応


イラクから撤収する最後の米軍部隊がクウェートに入ってくるのを見守るクウェート軍兵士= 2011年12月18日(米国防総省提供)

シリアとイラクに跨る「イスラム国」宣言を最も深刻に受け止めた国はアメリカであった。なぜなら1991年の湾岸戦争、1993年9月のオスロ合意、2003年3月のイラク戦争、とこの地域に最も深くかかわってきた国だからである。

イラク戦争はフセイン政権に対する疑惑(アルカイダをかくまっているという疑惑、大量破壊兵器保有と製造の疑惑、国連査察の妨害等)を現実的理由として実行されたものだが、イラクの民主化と周辺アラブ国家の民主化を期待してのことである。アメリカはフセイン独裁政権を軍事力によって壊滅させ、その後イラクの民主化に対しては道筋だけを示して新生イラク(マリキ政権)に委ねたのである。言い換えればマリキ政権がイラクの当事者としてイラク統治をうまくやっていくべきとしたのである。アメリカは側面からの軍事支援に徹するスタンスを採ったのである。したがってイラク民主化の失敗はアメリカにあるとすることは、イスラム・イラク国家の責任を不問に付す一種の責任転嫁論である。当時のイラクの状況はそのような脳天気なことを論じている余裕はなかった。

事実アルカイダ系のISILは2006年10月には「イラク・イスラム国」と称し領域支配戦略を行っていた。そしてアメリカ軍の全面撤退(2011年12月)を見越して2010年10月にはアブバクル・バグダディは「イラク・イスラム国」のアミール(司令官)に就任しフセイン政権時代の軍人を副官に任命していた。

オバマ大統領のIS対応


エジプトのモルシ前大統領

オバマ政権はムスリム同胞団を非暴力的(民主的)社会宗教運動とみなし、イスラム型の民主主義国家移行を担う勢力として期待したのである。これは大変な間違いであった。アラブの春は長期独裁政権をアラブ人民による大衆デモによって倒すことには功を奏したといえようが、その後はイムスリム同胞団の生み出した過激イスラム主義者の独壇場と化し、民主的政権の誕生はおろか国家自体の大混乱を招いたのであった。その代表例はエジプトにモルシ・ムスリム同胞団政権を誕生させたことだ。またチュニジアでは同胞団系のアンナハダ政党に力を与え、リビアではカダフィ後に欧米の認知できる穏健な政権ができたとはいえ過激イスラム主義者の草刈り場となり混迷状態が続いている。

シリアの場合、反政府デモはアサド政権による強硬な鎮圧により過激化した。特にシリアの化学兵器使用が明確になったとき、オバマ大統領は軍事力を背景に内戦解決を主導するチャンスがあったが逃してしまった。イラクの「イスラム国」はこの隙を逃さなかった。シリアにシリア人のアルカイダ系人物を送り込み反政府運動の中の過激派を取り込むヌスラ戦線を設立し、反政府運動者同士の戦闘を繰り広げ、内戦を泥沼化することに成功した。


エジプトのシシ大統領

かつてサダト大統領を暗殺したのもムスリム同胞団から派生した「ジハード団」であったし、アルカイダの現在の頭目ザワヒリ容疑者もムスリム同胞団出身である。

一般大衆もムスリム同胞団が過激派に羽交い絞めにされている社会宗教運動である事がわからなかったのである。エジプトではこのことに気づきエジプト第二の革命によってシシ大統領を誕生させたことの意味は大きい。つい最近ヨルダンではムスリム同胞団本部が閉鎖された。

つまりオバマ政権のムスリム同胞団理解は間違っていたのである。それゆえアメリカ中東政策は見直しを迫られる事となった。

空爆と米主導の有志連合


シンジャールはシリアのラッカからイラクのモスルを結ぶ交通の要衝。

米国とアラブ連合軍が行なったシリアのIS拠点空爆について説明する米国のメイビル中将= 2014年9月23日、ペンタゴン

そのような迷える米中東政策を尻目にISはシリアとイラクの「イスラム国」樹立宣言をしたのだ。

中東政策でこれ以上の失点を重ねることのできない米オバマ政権は慎重にIS対応策を検討したと思われる。そして「空爆と対イスラム国包囲網」戦略を決定したのである。

アメリカの最初のイラク空爆は2014年8月8日、キリスト教徒であるヤジーディ教徒救出のためという名目として行われた。またシリア空爆は9月22日に初めて行われたが、中東5カ国が加わり、シリアの「イスラム国首都」ラッカを攻撃した。オバマ米大統領は「テロリストにとっての聖域を許容しない」と強調し「新たなテロとの戦い」を出発させた。

米政権がISに軍事的にかかわることは2011年12月の米軍全面撤収以来のことである。イラク政府を支援するにしてもアバディ首相による挙党一致内閣の成立を忍耐深く待ってからのシリア国境に近いイラクのシンジャール空爆であった。また2014年9月3日から欧州を歴訪したオバマ大統領は「ISを解体し、壊滅させる」として、「広範な連合」構想を訴えた。その上でサウジを中心とする湾岸諸国とヨルダンを根回しし、22日のシリア空爆となったのである。オバマ大統領は9月24日国連総会において有志連合参加を呼びかけた。「空爆と有志連合」戦略は「対IS」を見据えた中東戦略として欧米、アラブ・イスラム諸国の国際連携を構築することに成功した。

ISへの国際包囲網は成果を上げ始めている。2015年、シリアの交通要衝ラマディがISに制圧された時期もあったが同年12月には奪還した。2016年末までにはイラクISの「首都」モスルの奪還を目指している。

パリ同時多発テロ


突入作戦で集合する警官隊(2015年11月18日サン=ドニ、パリ北部郊外)

2015年11月13日に起こったパリ同時多発テロは死者130人負傷者350人を超える犠牲者を出した。犯行グループは18人と報道され、「イスラム国」がイスラム圏外で実行した初の組織的大規模テロである。

2015年12月4日、読売新聞のインタビューにアブドルバーリ・アトワーン氏は以下のように応えている。(要点を列挙)


アブドルバーリ・アトワーン

(1) ISはアルカイダのようなワンマン組織ではない。旧フセイン政権の軍将校、情報機関員らによる集団指導体制が確立されている。 (2) 実務を担うのも旧政権の公務員で、徴税、医療、電気などの他分野の経験者がそろっている。 (3) スラム国の国家拡張シナリオとして、第一段階は本拠地での統治拡大と安定化であって対欧米テロは、それが達成した後の目標であったと指摘。実際には第一段階を完遂できぬまま、第二段階の対欧米テロ移行を余儀なくされた。パリ同時多発テロは新段階移行を意味するが第一段階を達成できぬまま予想より早く実行された。 (4) 米国主導の有志連合による空爆が「イスラム国」への圧力になっているのは確かだ。最近シリアの本拠地ラッカとモスルを結ぶ補給路上の要衝シンジャールを失った。 (5) 財政、軍事面での自立:1000万人を統治し徴税している。13の油田を支配し、輸出入にも課税している。シリア政府軍からロシア製武器を、イラク軍から高性能の米国製武器を奪っている。

2015年9月27日、フランス空軍はシリアを初空爆した。1月のパリの風刺週刊誌社「シャルリー・エブド」連続銃撃テロを受けた後においても仏政府内には「シリアのアサド政権と戦うイスラム国を攻撃すれば、結果的にアサド政権を利する」として、シリア空爆に慎重な姿勢が強かった。フランスのシリア初空爆はそのような意見を超えての決断であった。つまりオランド政権はその命運をかけてISテロとの戦いに踏み切ったのであった。


フランスは2015年9月27日、シリアで初の空爆を行い東部のIS 訓練キャンプを破壊したと発表した。写真は爆撃を行った同型の仏戦闘機ラファール(米海軍提供)

その決断を挫くために起こったのが、ISによるパリ同時多発テロである。パリ同時多発テロはISが仕掛けたフランスへの戦争行為なのである。IS戦闘員による自爆テロはIS最高レベルの戦闘行為なのである。

有志連合による対IS国際連携は徐々に強化されて来ていた。トルコの国境管理強化によりIS支配地域の物流経済、戦闘員をメインとする人的交流、原油密輸によって得られる資金等々への締め付けは厳しくなり、加えてフランスの空爆参加はISにとって手痛かったのである。

人道支援だけでない(軍事支援以外の)日本の積極策の提言

パリ同時多発テロを受けオランド仏大統領は「非常事態宣言」を発し、空爆続行を宣言した。ISへの空爆は「敵国」IS本体を壊滅させるためであり、「非常事態宣言」は戦時下レベルにおける国内テロ対策なのである。

オバマ大統領は「ISは米国の存立に関わる脅威ではないものの、イスラム教を曲解した殺人集団だ。ISをシリアとイラクから除去し最終的に破壊するまで精力的に追求し続ける。世界はテロリズムに対抗して団結する必要がある」と語った。

同じように、ISは日本の存立に関わる脅威ではない、ことは確かである。日本は国際社会と連携し日本の得意とする人道支援を進めてきている。それを柱とする積極的平和外交は世界の評価を集めつつあることも確かだ。しかし人道支援のみを追求し国際社会に対して‘お義理を果たす’という姿勢とみなされてはならない。

IS壊滅のための日本の役割についてより踏み込んだ提案をなすべきだ。専門家の力を結集し、新規広範な戦術を日本が提案を用意することを期待してやまない。


脚注

アブバクル・バグダディ
ISIL: イラクのアルカイダ(IAQ)、ザルカーウィ(2006年6月米軍の爆撃で死亡)ヨルダン人。シーア派、外国人まで神の敵として無差別テロを繰り返した。バグダディはIAQのザルカーウィ死後、継承されたISIL(イラクとシャームのイスラム国)の戦闘の責任者。2014年6月29日ISILによって{イスラム国」のカリフに押し立てられる。

アブドルバーリ・アトワーン氏
アラブ圏紙「アルクッズ・アルアラビー」元編集長。パレスチナ出身。1996年ビンラーディーンにインタビューした。近著に「イスラム国」)


ウズベキスタンで触れた、穏健で世俗主義的なイスラムの実態(下)

ジャーナリスト 藤橋進

ソ連時代の無神論教育や抑圧によって、世俗主義化が進んだウズベキスタンのイスラム教だが、1991年の独立以降、イスラムの復興が進んでいる。一方その一種の副作用として、タリバンなど根本主義や過激主義の影響を受けた過激なイスラム運動も起きている。これに対しカリモフ政権は、過激派を徹底して押さえ込む一方、穏健なイスラムを育成支援するという形で、イスラムを統制している。

独立後にイスラムの復興に力を入れたウズベキスタン


アル・ブハーリー廟へ続く門と参拝者

ウズベキスタン独立後、目に見える形でのイスラムの復興は、モスクの再建・修復、さらにイスラム聖者の墓や霊廟の修復・整備に現れている。前回触れた『ハディース』の編纂者の一人として崇められるアル・ブハーリーの墓が、サマルカンド郊外にあるが、この墓も独立後、立派な霊廟に整備された。


美しい石で装飾されたアル・ブハーリ廟。大理石の棺の下に本物の棺が安置されている。

筆者が訪れたときも、老若男女の参拝者で賑わっていた。広大な敷地の中、美しく整備された参道がドームを戴いた廟の建物へと続く。墓は美しい石で装飾された廟の建物の地下にあり、大理石の床の上に指標となる大理石の棺が置かれている。

カリモフ大統領の指示で整備された霊廟やモスク


参拝者のために祈祷する聖職者(右から3人目)

「アル・ブハーリーは、目が見えなかったが、5歳の時見えるようになり、16歳でメッカに巡礼しました。そして各地を遍歴して90万とも言われるハディースを収集しました。780年に亡くなりましたが、お墓に埋葬した時、光が発し、よい香りが漂った言われています」

団体の参拝者に聖職者のガイドがアル・ブハーリーの足跡を説明している。墓の三方を囲む壁際にはベンチが置かれ、参拝者のために聖職者が祈祷をしてくれる。


記事の続きは、電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2016年5月, 夏季号にて…


EU・トルコが難民送還で合意

欧州への接近図りたいトルコ−クルド人の独立機運を警戒

ジャーナリスト 本田隆文

欧州連合(EU)とトルコの間で3月18日に交わされた合意に基づいて、ギリシャからトルコへの難民・不法移民の送還が始まった。この措置によって、トルコからギリシャに入る難民のルートは事実上閉鎖される。難民流入が減少することが期待されているものの、問題の最終的な解決とは程遠い。

送還は3月20日以降にギリシャに到着した難民らが対象となる。その代わりにEUは、トルコにいるシリア人難民を、7万2000人を上限に受け入れる。

EU、難民受入から流入抑制へ方針転換


3月18日、「安全で合法的な」難民対策で合意した左からトルコのダウトオール首相、EUのトゥスク大統領、欧州委員会のジャン=クロード・ユンケル委員長。3月20 日に発効=欧州委員会のホームページから。

2015年にEU域内に、中東・アフリカから流入した難民は約100万人。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、シリアからの難民が最も多く約半分を占める。

EUは、シリア内戦の激化で急増した難民に対し、基本的には受け入れることを前提としてきた。その旗振り役がドイツのメルケル首相だ。しかし、増え続ける難民を前に、方針を転換し、ルートを遮断、送還というかたちで流入を抑えることとなった。

EUとトルコは、昨年11月に難民流入抑制への行動計画で合意していた。EUがトルコに30億ユーロ(約3750億円)の支援を行うとともに、2016年10月にトルコに対するビザ(査証)免除を実施することを目指していた。

だが、今年3月の合意で、トルコへの支援は倍増され、ビザ免除を6月に前倒しすることとなった。また、トルコのEU加盟交渉の加速も盛り込まれている。しかし、これらはあくまで努力目標だ。EU側が譲歩した格好だが、その実行となると、多くの問題をはらんでいる。


記事の続きは、電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2016年5月, 夏季号にて…