平和国家の信頼を獲得した日本
中東平和が進展した30年と日本の関わり
NPO法人サラーム会会長 小林育三
電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2023年2月, 冬季号より
1.日本の過去30年は「失われた30年」か?
多くの経済専門家が「日本の過去30年は‘失われた30年’」と言っています。1989年、日経平均株価は4万円近い最高値を付けました。しかしその後30年株価は40%下げた24000円を下回ったままの低迷を続けました。経済成長率はここ30年間2%以下の低成長です。30年間の名目GDPは420兆円から560兆円と拡大し、130%の成長を遂げたと言えますが、その世界に占める割合は15.3%から5.9%に低減しています。このことは日本国内総生産の成長が新興成長国より低いことを物語っており、その顕著な例が中国にGDP世界二位の座を明け渡し三位に落ちたことです。
また日本の国際競争力は1989年から4年間は世界一位でしたが2002年には30位に後退しその後も30位から上がっていません。そしてグローバル企業の収益ランキングを示す「フォーチュングローバル500」の中にランキンギインする企業が111社あったのに2019年では52社となっています。
明らかに経済的観点からみれば‘失われた30年’と言えるでしょう。
それでは、30年間日本は何も得なかったのでしょうか?(経済に強い国に復活するにはどうすべきか?について論じることは割愛します)
2.‘平和国家日本’の世界的信頼を獲得した30年
1)深刻だった日米貿易摩擦
日本は1980年代ばジャパンアズNo1と評され、経済大国二位の位置に上り詰めてました。しかし「経済だけの土俵での競争は公平ではない」として「日米安保ただ乗り」批判がアメリカ議会で湧き起こりました。それは日本車をハンマーでたたき壊す映像とともに‘日米貿易摩擦’として日本に伝えられました。事態を深刻に受け止めた時の総理中曽根首相は直ちに訪米し、日本の国際貢献への努力、防衛費のGDP比1%枠の撤廃を約束しました。
2)Too late, Too little
32年前の湾岸戦争で日本は130億ドルを拠出しました。この時アメリカ議会で沸き起こった日本に対する痛烈な批判の言葉が、Too late, Too little だったのです。
簡単に解説しましょう。
クウェートがイラクの侵攻を受けたのは1990年8月2日未明でした。国連安全保障理事会は即日満場一致で、「イラク軍の無条件即時撤退」を決議しました。6日には米英仏ソによる多国籍軍が構成され8日には米戦闘機と空挺部隊の4000人の米兵がサウジアラビアに到着しました。12日にはエジプト第3機械化師団がサウジ入りしアラブ合同軍が組織されました。この時点で米国ブッシュ(父)大統領は日本の海部首相に対し「輸送協力」を強く要望しました。海部首相は湾岸危機の深刻な事態;「クウェートだけでなくサウジまでもイラクの支配下に落ちるかもしれない」さらには「ユダヤ・キリスト教とイスラム教の対立から世界大戦になるかもしれない」予測不能な危険をはらんでいる事態、という認識がなかったため決断できませんでした。その時総理は「自衛隊機を派遣して輸送を手伝う」と応えなかったのです。その結果政府は野党の「軍事的解決反対」に押し切られ、ついに戦争終結前に自衛隊機を派遣することができませんでした。
戦争終結後4月26日に海自掃海艇がペルシャ湾に派遣され、日本の面子は丸つぶれとはならなりませんでしたが、‘湾岸戦争終結後にやっと’という失望交じりの痛烈な批判感情がToo lateには込められていたのでした。
Too littleについて;日本の経済界は金で済ませばよいではないか、と安易に考え事態の深刻さも計算できず、はじめ10億ドルで済まそうとしました。アメリカは直ちにToo littleと批判し、それで国会は40億ドルを決議し、さらに90億ドルを追加決議して合計130億ドルとなりました。90億ドルの補正予算が成立したのは戦争終結後の3月6日でした。(Too lateはこのことをもさしている)言われてから出すというみっともない姿を晒したこととなりました。
3)国際貢献の抜本的見直しと日米安保再定義
「国際貢献に人的貢献は必須不可欠である」。掃海艇をペルシャ湾に送る提案をした当時の国対副委員長与謝野薫氏〈故人〉は「あれだけ苦労しても、やはりカネを出すだけでは信用を無くし、日本は国際社会の孤児になってしまう」と述懐しています。
日本の国際貢献は抜本的転換を迫られました。故与謝野氏は人的貢献をするために国連平和維持活動(PKO)を徹底的に研究したと言い、その結果成立したのが1992年の国連平和維持活動(PKO)協力法でした。同法を根拠に自衛隊が派遣された国は、カンボジア、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモール。派遣された各地で自衛隊は評価されました。国連とタイアップした日本の国際貢献は実績を積み上げ10年間で国際協調路線としての評価を定着させることができました。
もう一つ重要な見直しは、日本の国際情勢に対する理解と日米安保の再定義であった。
冷戦構造終結後の混乱を見越して起こった湾岸戦争。そして日本の近隣では1993年北朝鮮がNPT(核拡散防止条約)脱退を宣言。1994年台湾で李登輝総統が独立指向を明確にすると、中国は台湾海峡で大規模な軍事演習を行い、台湾を威嚇した。アメリカは空母2隻を台湾海峡に派遣し、とりあえず中国の行為を止めることに成功しました。
日米「安保再定義」は不可欠となり、1996年4月、橋本首相とクリントン大統領との首脳会談が合意され、以下の歴史的転換を成しました。それは次の二点です。
・軽武装経済重視から有事を含め軍事同盟化への色合いを濃くした。
・防衛は日本領土だけでなく周辺のアジア・太平洋防衛に拡大した。
4)テロとの戦争と日米安保の深化
2001.9.11、アルカーイダによる米同時多発テロ発生。国連安保理事会は翌日12日に満場一致で国連安保理決議1368を採択しました。時の政権小泉総理は直ちに「テロ特別措置法」を成立させ、アフガニスタン難民に救援物資を自衛隊輸送機で送り届け、インド洋での給油活動を行いました。
2003年のイラク戦争では米英のイラク軍事攻撃を支持し、イラク特措法で応えました。イラク特措法に基づく自衛隊のイラク派遣は2003年12月から2009年2月まで実施。目的はイラク国家再建を支援するためでした。
これらの日本の対応により、日本は中東地域で日の丸を掲げて(Show the flag)平和貢献に励むことができ、米英軍との協働の中で信頼関係を深め日米同盟の強化につながりました。更に重要なことは、‘テロとの戦争’で、周辺事態を地理的概念のみでとらえることができない現実に直面することにより重要影響事態という概念が生まれたことです。また、集団的自衛権を認める国連憲章の下での活動により、集団的自衛権の行使は当たり前の世界情勢であることを体得しました。
このような体験を通し、日本の集団的自衛権の概念と自衛隊による国際平和協力は2015年9月の安保関連法制定として実を結びました。
5)「自由で開かれたインド・太平洋安保」は世界的支持を獲得
2004年4月、日本郵船の大型タンカー「高鈴」がイラクのアルカーイダの自爆テロに狙われました。海自護衛艦はインド洋での給油作戦には参加できていましたが、係争中のペルシャ湾内には派遣できません。この時は英のペルシャ湾派遣艦ノーフォークが高鈴の係留地点であるバスラの沖300メートルでの銃撃戦の末テロの小型高速艇を爆破しました。
2005年ごろからソマリア沖アデン湾には海賊が横行し始めました。日本の船舶はこの北アラビア海の全航行船舶の一割を占めています。そのため日本は世界から応分の防衛責任を果たすことが求められていました。そして2009年7月に海賊対処法を成立させることができました。
それから10年後2019年12月、日本はこの海域に海自護衛艦派遣を決定し、ようやく中東海域まで海自護衛艦を派遣できるようになりました。これは安部首相(当時)によって、特に難しいイランとの交渉をトランプ前大統領から任され、北アラビア海への海自護衛艦派遣を成功に導いた成果でした。
2021年、フランス海軍と日米豪印との共同訓練「ラ・ペルーズ」がインド東方ベンガル湾で開催、ドイツとは日独2プラス2が開催されドイツのフリゲート艦が極東に派遣されました。イギリスは最新鋭空母「クイーン・エリザベス」を含む空母打撃軍を極東に派遣しました。これらは安倍首相(当時)提唱の「自由で開かれたインド・太平洋構想」の実りでした。自由で開かれたインド・太平洋安保は世界的支持を獲得し、中国の‘一帯一路構想’を凌駕しました。
さらに歴史的問題の多いイスラエルとアラブ諸国との仲介についても日本の役割が期待されるようになりました。これも特筆すべきことです。
以上、国際貢献や防衛安保の観点において、過去30年で日本は世界的平和国家としての信頼を獲得しました。
3.中東平和が進展した過去30年
1)1990-91年の湾岸危機・湾岸戦争
湾岸危機はアラビア半島全域、更にはユダヤ・キリスト教対イスラム教との宗教戦争に拡大するのではないか?との危機感を抱かせました。しかし、国連を中心に米欧諸国とアラブ・湾岸諸国は協力して克服する事が出来ました。イラク・フセイン大統領の領土的野望は打ち砕かれ、イラクは敗北を認めクウェートは解放されました。
反米・反イスラエル一色かに見えた中東で、1993年にはオスロ合意が成立しました。
翌年1994年にはヨルダンとイスラエルの平和条約が結ばれました。
この結果を見れば、中東平和、即ちイスラエルとアラブ諸国の関係は大きく改善され、中東和平、即ちイスラエルとパレスチナ問題は解決に向い、大きく前進したと言えます。
2)アルカーイダを結成したビン・ラーディンと反米闘争
アルカーイダはソ連・アフガン戦争の際にソ連軍への抵抗運動に参加していたウサマ・ビン・ラーディンとその同志により1988年結成されました。大学時代にムスリム同胞団に関心を持ったビン・ラーディンは父から譲り受けた財産を資金としてアフガニスタンのムジャヒディンに金銭的支援をしており、その後本格的にアフガニスタンに拠点を移し活動し1988年8月にアルカーイダを結成しました。
その後のアル・カーイダによる反米テロを以下列挙します。
オマル・アブドゥッラフマーン:イスラム集団(アル・ガマーア・アル・イスラーミーヤ)の精神的指導者。世界貿易センター爆破事件やルクソール事件(1997年11 月、日本人10 名を含む外国人観光客58 名死亡)の首謀者。
(ビン・ラーディンとザワヒリ)
1993年2月、ウサマ・ビン・ラーディンはイスラム集団オマル・アブドッラフマーンと共謀し世界貿易センタービル地下爆破事件を起こした。
1995年5月、エチオピア訪問中のムバラク・エジプト大統領暗殺未遂事件。
1995年11月サウジアラビア・リヤドの国家防衛隊施設爆破事件で米軍顧問7人死亡
1996年6月、在サウジアラビア米軍基地宿舎爆破事件
(257人死亡。400人負傷)
1998年2月、ビン・ラーディンとザワヒリの連名で「ユダヤ・十字軍に対する国際イスラム戦線」を結成。「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」と指令。
1998年7月、タンザニアのケニアのアメリカ大使館爆破事件。(223人死亡。4000名負傷)
2000年2月、イエメン沖の米艦コール(イージス艦)襲撃事件。
3)2001.9.11、アルカーイダによる米同時多発テロは世界を震撼させた
アルカイダの創設者ウサマ・ビン・ラーディンをテロの首謀者と断定したブッシュ政権はアフガニスタンのタリバン政権に首謀者の引渡を要求しました。しかしタリバン政権はビン・ラーディンの引き渡しを拒否しました。ブッシュ(子)大統領はアフガニスタン侵攻を開始し、タリバン政権は数ヶ月で崩壊しました。しかしビン・ラーディンを逮捕する事は出来ませんでした。
当時アルカーイダはスンニ派系イスラム過激派としてグローバルジハードを展開し,既にアフガニスタン、パキスタン、中東、アフリカ地域を中心に世界的ネットワークを築いていました。それゆえテロとの戦いは‘テロとの戦争’と称されたのです。
2003年のイラク戦争は‘テロとの戦争’の延長の中で引き起こされました。イラクのフセイン政権はあっけなく崩壊し、フセイン大統領は2006年12月処刑されました。
しかしテロとの戦争’はイスラム教から逸脱したイスラム教徒を自称する聖戦主義者やアルカーイダによって引き起こされる反米・反イスラエル戦闘として継続する事となりました。
10年後の2011年5月、米国は特殊部隊の急襲によりビン・ラーディンを銃撃戦で殺害しました。
4)2010年末から始まったアラブの春
チュニジアで起こったジャスミン革命は中東アラブ・イスラム諸国の長期独裁政権打倒を目指すイスラム大衆運動として燎原の火のごとく燃え広がりました。チュニジアのベンアリ政権は打倒され、エジプトではムバラク政権が崩壊しイスラム過激派のモルシ大統領が2012年に誕生しました。しかし翌年エジプト第二の革命が起こり軍出身のシシ大統領が誕生しました。またリビアではカダフィ大佐が反体制派に射殺され内戦に陥りました。
イラクでは2003年のイラク戦争後、復興が軌道に乗ったかに見えましたがイスラム過激派による激しい反体制テロが勢力を拡大していました。シリアに飛び火した反体制デモは全国に広がり、アサド政権は容赦ない軍事弾圧を強行し、2012年には泥沼の内戦状態に陥りました。
以上一連の大衆運動はアラブの春と称され、イスラム型民主主義を希求する運動として期待される要素を含んでいました。しかしアラブ・共和国諸国の行き過ぎた反米感情は健全な政治改革をゆがめ、過激なイスラム原理主義にハイジャックされてしまいました。遂にはISIS「イスラム国」の誕生となりました。アラブ諸国は超過激な「イスラム国」との戦闘に自力では克服できず、欧米多国籍軍の軍事力の協力を得て3年間かかって、やっとイスラム国を崩壊させることができたのです。
結局、アラブの春は失敗に終り、シリア、リビア、イェメンは内戦状況として残されたままです。また「イスラム国」は滅亡しましたが‘過激派組織IS’は残り、穏健イスラム主義対イスラム過激派(IS、アルカーイダ等)との対立抗争として残されました。
5)湾岸諸国とイスラエルの接近
湾岸諸国にもアラブの春は波及し、より民主的な政治体制を要求することとなりましたが、穏健的イスラム主義者が多数を占めているため暴力的・過激なイスラム主義とは同調しませんでした。
2014年7月に「イスラム国」が誕生するとGCC(湾岸諸国機構)6か国は過激なイスラム主義と本格的に対決するようになりました。
①湾岸6カ国は2015年2月、「テロに対する資金断絶。支配地域の監視強化、ダーイッシュに対する監視強化」を決議しています。
GCC6カ国は一貫して「イスラム国」という呼称を嫌い、ISIL(イラク・レバントのイスラム国)を意味するアラビア語(al-Dawla al-Islamiya al-Iraq al-Sham)の頭文字をとってDaesh‘ダーイッシュ’と呼びます。それはアラビア語の‘ダーイッシュ’という意味が「踏みつけて破壊する者」「不和の原因となる者」という意味となるからです。
②湾岸6か国は「‘イスラムの寛容と協調’によって平和を取り戻す」とし、「テロ防衛の為イスラエルとの情報共有も為す」としました。
イスラム軍事連合を発表するサウジ・ムハンマド副皇太子
③またスンニ派湾岸諸国は、「イランの核開発に対する懸念でもイスラエルと利害が一致」しました。そのような背景をもって、2015年12月、UAEはアブダビにある国際再生可能エネルギー機関(IRNEA)にイスラエルの政府代表部を設置しました。(国交のないUAEにイスラエルの外交団が常駐するのは初めてのことであった)
④2015年の12月15日、サウジは「中東、アフリカ、アジアの34カ国・地域から成る対テロ「イスラム軍事連合」を結成すると発表しました。
軍事連合はサウジが主導し首都リヤドに作戦本部を置き、欧米との連携も視野に入れる、としました。(カイロ時事)湾岸諸国にとってテロの脅威を取り除くことは焦眉の急であり、レバノンのシーア派ヒズボラ、イラクのシーア派サドル師、イェメンのシーア派系フーシ派の脅威よりも優先される先決事項だったからです。
湾岸諸国は「イスラム軍事連合」の結成によりイスラム過激派組織をイスラム社会と国際社会の共通の敵と断定し、テロとの戦いを闡明にました。それを受け2017年トランプ大統領は、イスラム過激主義をテロ組織と明確にした上で「イスラム国」掃討作戦に乗り出しましたのです。アラブ・イスラム諸国37カ国はトランプ大統領の掃討作戦を支持し、イスラム国は崩壊しました。
6)2020年9月15日、イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーンは国交正常化に合意・調印しました。(アブラハム合意)
アブラハム和平協定合意:アラブ首長国連邦とイスラエル国間における平和条約及び国交正常化。写真は左からバーレーン のザイヤーニ外相、イスラエルのネタニヤフ首相、アメリカのトランプ大統領、アラブ首長国連邦のアブドッラー外相(ウィキペデイアより)
続いてスーダン、モロッコも合意しました。1979年に国交を結んだエジプト、1994年に国交を結んだヨルダンと、合わせてアラブ諸国は6カ国となりました。
以上過去30年を振り返りみれば、中東平和は進展し8合目を越えてきています。
中東は平和を希求し、日本の平和への積極的プレゼンスを期待しています。