202105

世界的支持を拡げる‘自由で開かれたインド太平洋安保’

NPO法人サラーム会 会長 小林育三

電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2021年5月, 夏季号より

仏強襲揚陸艦トネール(ウィキペディア)
仏強襲揚陸艦トネール(ウィキペディア)

2021年4月5日、インド東方ベンガル湾でフランス海軍による日米豪印との共同訓練「ラ・ペルーズ」が始まった。フランス主催のこの共同訓練は2019年5月に初めて開催され、今回初めてインドが加わった。仏強襲揚陸艦トネール艦長のアルノー・トランシャン氏は「戦略的地域での仏の展開能力の実証」とし、「平和で安全かつ繁栄したインド太平洋地域」に向けた協力強化で一致したことを強調した。
また日本とドイツは「日独交流160周年」を記念する今年、初めて‘日独2プラス2’を4月13日開催した。4大臣は中国が海洋進出を強める東シナ海、南シナ海情勢に深刻な懸念を共有し、‘自由で開かれたインド太平洋安保’の実現に連携することを確認した。ドイツは8月にフリゲート艦を極東に送る予定だ。
イギリスも5月に最新鋭空母「クイーン・エリザベス」を含む空母打撃群を極東に送る予定となっている。 本稿では世界的支持を拡げる‘自由で開かれたインド太平洋安保’の背景と日本の課題について考えたい。


安倍前首相の提唱である‘自由で開かれたインド太平洋安保’

第6回アフリカ開発会議、ケニア・ナイロビ(首相官邸ホームページ)
第6回アフリカ開発会議、ケニア・ナイロビ(首相官邸ホームページ)

2016年8月27日、第6回アフリカ開発会議(TICAD)がケニアで開催された。その基調演説で安倍首相(当時)は、日本政府として民間企業の対アフリカ進出を後押しするため,『日本・アフリカ官民経済フォーラム』の立ち上げを発表した。またアフリカと日本は互恵的な関係に入った、との認識のもと「アフリカから国連安保理の常任理事国を送り出すべきだ」との考えを提案した。
そして、アフリカとアジア・日本をつなぐのは『海の道』だとし、「アフリカとアジア・日本は、世界に安定、繁栄を与える‘自由で開かれたインド・太平洋’をルールの支配する市場経済を重んじる場として一緒に責任を持って参りましょう」と呼びかけた。

理解を得られた‘自由で開かれたインド太平洋’

2019年8月の第7回アフリカ開発会議の「西インド洋における協力」と題する特別会合(向い中央は河野外務大臣、外務省HP)
2019年8月の第7回アフリカ開発会議の「西インド洋における協力」と題する特別会合(向い中央は河野外務大臣、外務省HP)

前回に引き続いて横浜で開かれた2019年8月の第7回アフリカ開発会議の「西インド洋における協力」と題する特別会合で、河野外務大臣(当時)は議長スピーチで、「西インド洋地域はアジア,アフリカ,欧州を繋ぐ枢要なシーレーンを有し、ブルーエコノミーの有望な地域」と指摘し「安倍総理が前回のTICADで提起された‘自由で開かれたインド太平洋’(FOIP)は①航行の自由を含む法の支配の確立,②経済的繁栄の追求及び③平和と安定へ のコミットメント、という3つの柱から成っている」と説明した。そして「島国である日本は、気象変動や自然災害に対処する能力強化プログラム、津波からの護岸建設や港湾施設や港湾建設等‘質の高いインフラ’をもって引き続き島嶼国を支援します」と語った。
出席者である西インド洋沿岸諸国は、「西インド洋における自由で開かれた海洋秩序の維持が重要であること,ブルーエコノミーの推進,海賊や違法・無報告・無規制(IUU)漁業の取締強化等を通じた海洋資源の持続可能な利用の確保が必要である」と応じ,‘自由で開かれたインド太平洋構想’と軌を一にしている、との認識を共有した。

安倍首相自ら、積極的にトランプ大統領、インドのモディ首相と会合

2018年11月30日(現地時間14時)、安倍首相(当時)はG20サミット出席のためアルゼンチン訪問中、ドナルド・トランプ米国大統領(Donald J. Trump, President)とナレンドラ・モディ・インド首相(H.E.Mr.Narendra Modi, Prime Minister of India)と,初の日米印首脳会合を行った。30分の会合で、自由、民主主義、法の支配といった基本的価値と戦略的利益の共有について率直に意見を交換し、「インド太平洋地域の安定と繁栄」の意義を確認し、協力強化で一致した。

2019年6月28日、G20大阪サミット、日米印首脳会談(写真提供:内閣広報室)
2019年6月28日、G20大阪サミット、日米印首脳会談(写真提供:内閣広報室)

翌年2019年6月28日、安倍晋三首相(当時)はG20大阪サミットで訪日中のドナルド・トランプ大統領とインドのモディ首相と2回目の日米印首脳会談を行った。
3カ国首脳は「インド太平洋地域における自由、民主主義、法の支配といった基本的価値」の共有について改めて確認した。15分という短い会合ではあったが、更に踏み込んで、「海洋安全保障、宇宙・サイバー空間を含む新たな領域における安全保障、質の高いインフラ投資の推進」の為、協力することでも一致した。
 2016年のアフリカ開発会議(TICAD)で提起された‘自由で開かれたインド太平洋’(FOIP)構想は、安倍首相(当時)自らの積極的外交努力によりアフリカ東側諸国、西インド洋島嶼国、そして米印の理解を得ることに成功した。
TPP(環太平洋連携協定)脱退を表明したトランプ大統領(当時)の理解と支持を獲得したことは日本外交として特筆すべき成果であると言えよう。また長い国境線を有し、国境戦上でのにらみ合いを中国と続けるインドが自由と民主主義、法の支配という基本的価値観を優先した姿勢を表明したことは大きな決断であり、‘自由で開かれたインド太平洋’構想の主軸国家の同意を得られ揺るぎない構想になった、と言える。

外務省外交政策ホームページ
外務省外交政策ホームページ

積極的平和主義―戦後40年の節目(その一)

1980年代、いわゆる「ジャパンバッシング」の風が全米各地で吹き荒れ、日本車がハンマーで叩き壊される姿も報道された。写真はイメージ(写真出典:bivainis/123RF)。(2017年2月5日、乗り物ニュース掲載)
1980年代、いわゆる「ジャパンバッシング」の風が全米各地で吹き荒れ、日本車がハンマーで叩き壊される姿も報道された。写真はイメージ(写真出典:bivainis/123RF)。(2017年2月5日、乗り物ニュース掲載)

ここで改めて安倍前首相の積極的平和外交について考えてみたい。その背景にある考えは‘積極的平和主義’である。2013年12月第2次安倍内閣は‘積極的平和主義’を「国家安全保障戦略」として採用した。積極的平和主義の中心軸は、変らない平和主義である。
日本は第二次大戦後、周辺国から‘侵略’と見做される行動を極度に嫌い排除してきた。それ故国防・自衛論議は必要最小限に押さえられ、戦後復興はひたすら平和国家としての評価を得るために科学技術、産業・経済に力を注いできた。そして世界最先端の技術開発とそこから生まれる高品質な製品は、そのまま世界貢献に通じると思ってきた。
しかしそれだけでは不充分だった。何故なら大きな前提が存在していたからである。
 日米貿易摩擦はそのことを物語っている。防衛費をGNPの1%で済ませて産業を発展させ、結果日米間での米国の貿易赤字が増大することにより、日米貿易摩擦が始まった。日米繊維交渉に始まり、家電製品の対米輸出規制、そして1980年代に自動車輸出問題は日米貿易紛争に発展した。

初訪米で首脳会談を終え、レーガン大統領と握手する中曽根康弘首相=1983年1月18日、ホワイトハウス
初訪米で首脳会談を終え、レーガン大統領と握手する中曽根康弘首相=1983年1月18日、ホワイトハウス

更に日米ハイテク摩擦、と日米貿易のすべての分野に広がった。中曽根元首相が‘国際貢献’を提唱したのはこの頃のことだった。
1983年1月、中曽根康弘元首相はレーガン大統領(当時)と初めての首脳会談を行った。「ロン・ヤス関係」を築いた背景には防衛費のGNP(国民総生産)1%枠を突破する決意を示したからだと言われている。1986年12月にはその枠を撤廃した。
つまりその最大の前提は、日米安保条約の基に日本は米欧の自由・民主主義陣営に属して平和を享受しており、経済発展はそれを前提にしていたからである、と言う事実である。更に言えば、日米は経済力という土俵の上だけでの勝負ではfairとは言えない。アメリカの立つ土俵を考えるべきだ、という事だ。中曽根首相はその事をよく勘案し、日本の防衛努力と世界平和への役割を世界貢献という決意で応じた、と言えよう。

積極的平和主義―戦後40年の節目(その二)

サウード国王に謁見する山下太郎社長、1957年12月10日、数ヶ月におよんだ難交渉の末、日本輸出石油とサウディアラビア政府との間で、サウディアラビア・クウェイト中立地帯沖合の利権区域における石油開発に関する利権協定に調印
アラビア石油社史I 「砂漠に根をおろして」
サウード国王に謁見する山下太郎社長、1957年12月10日、数ヶ月におよんだ難交渉の末、日本輸出石油とサウディアラビア政府との間で、サウディアラビア・クウェイト中立地帯沖合の利権区域における石油開発に関する利権協定に調印
アラビア石油社史I 「砂漠に根をおろして」

ここで日本の平和主義の転換を迫られたもう一つの前提について指摘したい。
戦後の産業・経済の復興に欠くことの出来ない物は資源だ。その中でもエネルギー資源として必須不可欠となる石油はほぼ100%輸入に依存している。しかも第二次世界大戦における苦い経験として、輸入に頼ることによって生じるリスクを回避する為、‘自主開発油田’は暗黙の国是となっていた。その道を拓いたのが‘日の丸油田’と称されたアラビア油田であった。サウディアラビアとクウェート沖の海底油田の開発権益獲得であった。
この自主開発油田の成功は産油国側の日本への厚情とメジャーの間隙によって生じた好機を日本がとらえた天佑の出来事であった。産業発展の基礎となるエネルギー資源の安定的輸入を可能にしたのである。しかしイスラエルとアラブの中東戦争の影響を受けた2次に亘るオイルショックは、原油輸入国の分散と、石油以外による代替エネルギーの必要性を痛感させた。日本はエネルギー・ミックス政策によりオイルショックを克服していく事となった。

我が国の石油・天然ガスの自主開発比率
1973年から2019年までの推移

注:昭和48年度(1973年度)から平成20年度(2008年度)まで石油のみを対象として自主開発比率を算出してきましたが、平成21年度(2009年度)以降は石油と天然ガスを合算して、自主開発比率を公表しています。(2020年7月22日経済産業省発表)
注:昭和48年度(1973年度)から平成20年度(2008年度)まで石油のみを対象として自主開発比率を算出してきましたが、平成21年度(2009年度)以降は石油と天然ガスを合算して、自主開発比率を公表しています。(2020年7月22日経済産業省発表)

11月29日、国連安保理事会はイラクに対しクウェートからの撤退を促す最後の機会として、1991年1月15日を期限にあらゆる必要な手段を行使する権限を与える事実上の武力行使容認決議(678決議)を賛成多数で採択した(1990年11月30日付中日新聞・夕刊)
11月29日、国連安保理事会はイラクに対しクウェートからの撤退を促す最後の機会として、1991年1月15日を期限にあらゆる必要な手段を行使する権限を与える事実上の武力行使容認決議(678決議)を賛成多数で採択した(1990年11月30日付中日新聞・夕刊)

そこに起ったのが1990-91年の湾岸危機、湾岸戦争である。
湾岸危機が起った時は既に東西冷戦は終結となっていた。冷戦後の混乱期にあったものの国連安保理はほぼ全会一致でイラク軍の退去を決議した。にもかかわらず退去しないイラクに対しクウェートのために日本はいかなる言動をすべきであったのか?原油の自主開発では恩人ともいうべき国である湾岸のクウェートは亡国の淵に置かれており、1990年8月10日には緊急アラブ首脳会議がカイロで開かれ、「イラクのクウェート侵攻に対し、アラブ合同軍の派遣を含む7項目の決議を採択」している。国連安保理は11月末には事実上の武力容認決議を採択した。
湾岸危機は明らかに日本にとっても死活的緊急事態であったはずである。国連尊重の立場に立つ日本、日米同盟にある日本の役割、いずれから観ても湾岸危機に対する明確な姿勢を‘積極的’に表明すべきであった。そして日本の役割を具体的に提起すべきであった。しかし日本は、世界に、日本の姿勢の曖昧さ、人的貢献のなさ、平和への‘積極性’の足りなさ、との印象を与える結果となった。経済大国日本の威信に傷が付いてしまった。米議会で「日本の安保ただ乗り」論が噴出し「日本の国会議員の一人でも、アメリカが攻められたときアメリカを助ける、と言った人はいるのか?」と批判が出たことを忘れてはならない。

失われた威信をとりもどし、正念場を迎えた今

故与謝野馨氏は湾岸危機で日本が人的貢献の出来ないうちに湾岸戦争が終結してしまうとき、「このままでは、日本は世界の孤児になる」と危機感を抱いたと述懐している。そして与謝野氏が思いついて直ちに実行に移したのがペルシャ湾への自衛隊掃海艇派遣であった。1991年4月のことである。クウェート初め湾岸の人々が初めて目にした日の丸を掲げた日本人自衛隊の姿であった。
 1992年6月に国蓮平和維持活動協力法が制定され、国連と共に世界平和のための人的貢献に尽力出来るようになった。カンボジア、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモール、更にPKOに基づきながらも日本主体の人道的国際救援活動として、ルワンダ難民救済のための物資輸送活動、と国際貢献の実績を積み上げた。10年間で国際協調路線としての評価を定着させた。
2001年9・11米国同時多発テロ後ではアメリカ・ブッシュ大統領の‘テロとの戦争’に対し日本はテロ特措法で応えた。続く2003年のイラク戦争に対してはイラク特措法で応えた。

2002年10月カナダサミット
2002年10月カナダサミット

自衛隊インド洋派遣:2001年から2010年1月15日まで行われた、海上自衛隊の補給艦と護衛艦の派遣。時限立法テロ対策特別措置法に基づく、会場警備活動とインド洋での給油活動。(写真は2009年7月19日毎日新聞)
自衛隊インド洋派遣:2001年から2010年1月15日まで行われた、海上自衛隊の補給艦と護衛艦の派遣。時限立法テロ対策特別措置法に基づく、会場警備活動とインド洋での給油活動。(写真は2009年7月19日毎日新聞)

30年の歴史を越えて訴えられる‘自由で開かれたインド太平洋’

東日本大震災のとき、世界から‘心からの義援金’を頂いた。それだけでなくアメリカは‘トモダチ作戦’を展開してくれた。また遠くイスラエルから50名以上の特別医療団が送られてきた。
大震災後1年半後に成立した第2次安倍内閣は日本の混乱とマイナス的状況下にありながらも世界に向って積極的平和外交を掲げたのである。湾岸戦争後20年間、世界に向って平和の為に尽くした自衛隊初めとする日本人の国際貢献を土台として‘積極的’平和外交を掲げたのである。
日本は日米安保の傘の下にあっての平和であって、その傘自体の役割をどの程度分担するのか?どのように分担して行こうとしているのか?つまり日本の平和主義の‘積極性’が問われるようになっていたのである。
安倍外交はその応えとして‘積極的’平和外交を掲げ、‘自由で開かれたインド太平洋’構想を提唱したのだ。世界は日本のその構想を理解し受け入れつつある。日本が提唱した外交・安保で世界的支持を受けることが出来たのは、このような歴史的尽力と一貫した平和主義が認められたからである。(2021年4月24日記)

最近の投稿

使用済核燃料問題解決方法としてトリウム熔融塩炉に社会的スポットライトを!

8月18日、山口県熊毛郡上関の西町長は、町として使用済核燃料中間貯蔵施設の建設に向けた調査を受け入れる考えを表明した。原子力アレルギーが強い我が国にあって、町の財政事情や経済効果を考えた上での判断とはいえ勇断だと感じる。

核燃料サイクルが確立されていない今日、軽水炉型原子力発電で出る使用済核燃料は中間貯蔵する必要がある。「トイレの無いマンション」と揶揄されるように、使用済核燃料は溜まる一方である。プルトニウムとウランを混ぜてMOX燃料にし、プルサーマルで再利用が進んだとしても、原子力爆弾の材料となるプルトニウムを消滅できるわけではない。

最近、世界中で次世代革新炉と呼ばれる小型原子炉の開発が進んでいる。昨年、ビル・ゲーツが共同設立したテラパワー社が進める原子力プロジェクトに三菱重工業と日本原子力研究機構が参画したことはニュースにもなった。

次世代革新炉の一つに熔融塩炉がある。米国オークリッジでは実験用溶融炉が1965-69年まで順調に運転した実績を持っている技術である。熔融塩炉という液体燃料が原子炉の中を流れるので、爆発することは原理的に考えにくい構造になっている。ウランに替えてトリウムを使うトリウム熔融塩炉は、単にプルトニウムを消滅するだけでなく、軽水炉よりも安全で低コストな発電を可能にする。実現すれば中間貯蔵問題を解決でき、安価なエネルギーを大量に安定供給してくれるという代物である。

将来的に核融合が実用化されるとしても、それまでは、使用済核燃料問題を解決しながら、安全、低コスト、安定した電力供給できる小型原子力発電の可能性を持つトリウム熔融塩炉に、一日も早く社会のスポットライトが当たることを願っている。  (季刊サラームNo36 2021年2月春季「第二の原子力時代の門を開くトリウム熔融塩炉」参照)

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