中東への本格的平和外交に 船出すべき日本(中)
NPO法人サラーム会 会長 小林育三
電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2020年5月, 夏季号より
P3C 哨戒機
護衛艦「たかなみ」
昨年12月27日、海上自衛隊の中東派遣が閣議決定した。ホルムズ海峡を含むシーレーンでの日本関係船舶の安全航行確保のためだ。1月11日には海上自衛隊のP-3C哨戒機2機隊員60名が那覇航空基地からジプチに向け出発し た。ソマリア沖のアデン湾を中心に海賊対処活動も兼務する。河野防衛大臣は「勇気と誇りを持って」と訓示した。護衛艦「たかなみ」は2月2日神奈川県横須賀基地を出港し26日アラビア海北部に到着し活動を開始した。部隊を指揮する稲垣洋介一等海佐以下206名は「調査・研究」に基づく情報収集を任務としている。情勢が不安定なだけに頑張っていただきたい。無事を祈るばかりだ。 湾岸戦争後、国際貢献による世界平和へと舵を切った日本が今再び本格的な平和貢献の役割を果すことの出来る国となり得るか?世界の期待に応えうる日本となり得るかの時代を迎えている。
湾岸戦争後のPKO協力法
前号に詳しく記したように、日本は湾岸戦争に対し国会でやっと可決した国税から支援金 130億ドルを捻出した。しかしアメリカ議会の‘too late. too little.’ との批判、クウェートの出した新聞広告に日の丸がなかったこと、は戦争という過酷な事態の中で、支援金だけでは余りにも不足だという事をいやと言うほど痛感させられた。
このままではいけない、として湾岸戦争終結の2ヶ月後海上自衛隊掃海艇がペルシャ湾に派遣された。憲法、自衛隊法、法制面問題の無いことを確認し、熟慮を重ね根回ししての決定であった。自衛隊発足以来初の海外派遣であった。
故与謝野馨議員は「人的貢献を進めるために国連平和維持活動(PKO)について徹底的に研究した」と証言している。そして1992年6月国連平和維持活動(PKO)協力法が成立した。冷戦終結後「軽武装経済重視による一国平和主義から国際協調へ」と歴史的転換を為したのであった。
カンボジア国際平和協力業務 1992(平成4)年〜1993(平成5)年
(内閣府の国連平和協力本部事務局(PKO)のホームページより紹介)
停戦監視要員による積み荷の点検
停戦監視要員としては、第1次の1992(平成4)年9月〜1993(平成5)年3月までと第2次の1993(平成5)年3月〜同年9月までにそれぞれ8名の自衛官計16名が派遣された。
選挙要員
1993(平成5)年5月23日から5月28日までの間、カンボジアで行われた憲法制定議会選挙の実施に協力するため、UNTACに国家公務員5名、地方公務員13名、民間人23名、計41名が派遣された。
文民警察要員
カンボジア現地警察に対する指導、助言、監視の業務を行うために、1992(平成4)年10月から1993(平成5)年7月までの間、我が国から75名の文民警察 施設部隊 要員を派遣した。
施設部隊
陸上自衛隊の施設部隊は、第1次の1992(平成4)年9月〜1993(平成5)年4月までと第2次の1993(平成5)年3月〜同年9月までにそれぞれ600名の計選挙要員/Election staff1,200名が派遣された。施設部隊の主要業務は、内戦などで荒廃した国道2号線及び 3号線の道路や橋の修理などだった。その後、UNTACからの要請を受け、UNTACの構成部門などに対する給水、給油、給食、医療、宿泊施設の提供の業務や物資などの輸送、保管の業務などが追加され、幅広く活動した。
国際協調と自衛隊派遣
手術により多くの人命を救助
アメリカ空軍のC-130E:空輸派遣隊は、ナイロビゴマまでC-130輸送機で輸送業務に当たった
冷戦終結により世界大戦の危機は遠のいたものの、米ソ両大国の重しが取り除かれることにより地域覇権主義、異なる宗教・文化を背景とする民族主義の台頭による紛争が多発した。東ヨーロッパ地域、アフリカ地域、中東地域の紛争をあげる事が出来る。一方東アジア地域は潜在的不安定地域としての危険レベルは高まることとなった。
そのような中で日本は、1992年6月①国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させた。それ以降自衛隊の参加したPKO活動は、カンポジア、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモールと活発化させて行った。
また国際平和協力法に基づく日本主体の人道的国際救援活動として②ルワンダ難民救済のための物資輸送活動も為された。
このように国連とタイアップした日本の国際貢献は、実績を積み上げ、国際協 調路線としての評価を定着させて行った。
浮き彫りになった世界に通用しない日本の常識
日本の国際貢献は国連から歓迎されながらも深刻な課題を突きつけられた。例えば、カンボジアに派遣され基地の外で働いていた警察官一人と国連ボランティア一人の尊い命が失われた。国連を訪れた政府高官がこのことをガリ国連事務総長に言うと、彼は弔意を表した後「平和維持部隊では1000人以上が命を落としています」と応えた。その政府高官は二の句が継げなかった。日本の平和維持活動に対する常識は通用しない、と諭される恰好となった。
また、ゴラン高原に50名の部隊を派遣しようとした時 (イスラエルとシリアの休戦ラインを守る兵隊の通信・補 給を携わる)、ゴラン高原の国連軍司令官は「日本人をもらうと特別扱いしなくてはならないから、要らない」「もし日本人が死んだら大変ですから他の国からもらった方がよい」と言った。それに対し国連本部は「国連の分担金の20%を負担してくれている日本が、せっかく派遣しようと言ってくれているのだから断れない」と押し込んだ、という。このような 話は国連の平和維持部隊に自衛隊が参加するにも関わらず、国連側が日本の平和に対する常識に配慮するという、なんとも喜べない話であった。平和活動における世界に通用しない日本的常識が世界に知れ渡っていた、ということである。
内戦によって命を落とし、血を流し、多くの難民が発生している現地で救援活動を行う場合、それまでの日本的「武力行使と武器使用基準」では観念的で通用しない。世界の現実に適用出来る法整備が必要であることが浮き彫りとなった。それは政治の責任として残された。
国際連合安全保障理事会会議
アフガニスタン紛争
世界を震撼させた 9・11テロ
2001年9月11日、イスラム過激派テロ組織アルカーイダによりアメリカは未曾有の同時多発テロに見舞われた。2001年9月12日、国際連合安全保障理事会は満場一致で④国連安保理決議1368を採択した。
アメリカWブッシュ大統領は‘テロとの戦争’を宣言し、安保理決議を基にビンラーディンを匿うターリバン政権のアフガニスタン攻撃に踏み切った。
アメリカの要請を受けた小泉首相は直ちに「テロ対策特別措置法」を成立させた。10月にはアフガニスタン難民への救援物資は航空自衛隊輸送機でパキスタンに送り届けられた。
この特措法は2年間の時限立法であったが、自衛隊の‘戦時’における派遣、遠隔の国への派遣、そして在日米軍基地へのテロを予想しての‘警護出動’を可能とした。戦闘行為には加わらないものの安保理決議に基づき、アメリカの同盟国として当然の活動に 踏み切ることを可能にした。
世界的テロを展開したアルカーイダ
今日イスラム国の凄惨なテロを経験した世界は‘テロとの戦争’という表現に異を唱える人はいないが、当時はそうではなかった。特に平和に浸かる日本においては左翼的人士・マスコミは、日本だけは戦争に巻き込まれてはならない、日本人はテロに巻き込まれることはない、アメリカが世界の警察官をとして買って出るからテロの犠牲となるのだ、等の手前勝手な主張を繰り返していた。しかし中東・中近東では東西冷戦終結後、過去と異なる問題が起っていた。
1978年12月、ソ連はアフガニスンに軍事介入し共産主義の大統領を立てた。イスラム諸部族は一斉に反対しゲリラ闘争を展開した。当時大学卒業間もなかったウサマは既にムスリム同胞団に加入しており、大学教授の同胞団員アブドゥッラー・アッザームを師と仰ぎ、コーランを厳格に適用したイスラム社会実現を目指す様になった。そんな折イラン・イスラム革命の進行は大きな刺激となりアッザームの誘いによりアフガニスタンでムジャヒディンとしてソ連と戦うことを決意した、とされる。
サウジ王室と近かった彼はサウジアラビア総合情報庁(GPI)長官ファイサル王子からの委任を取り付け、そこからの資金と彼個人の資金でエジプトやスーダンからムジャヒディンをリクルートした。彼がオマル・アブドゥッラフマーン(1993年の世界貿易センター事件、1997年のエジプトのルクソール事件の首謀者)やザルカーウィー(2002年イラクのアルカーイダを創設、イスラム国の前身) との関係を深めたのはこの時期であった。
ウサマは1988年8月にアルカーイダを創設した。そしてソ連撤退後直ちに反米活動に転じユーゴスラビア紛争、バルカン紛争ではイスラム勢力支援に関与した。そして1990年の湾岸危機に際し自国サウジアラビアに米軍を駐留させることに反対し、自身の主張が時のファハド国王や国防相サウード王子に退けられると、サウジを離れスーダンに渡りジハード団の指導者アイマン・ザワヒリとの関係を深めた。
1992年イェメンのアデンのホテル爆破を皮切りに、1993年にはイスラム集団オマル・アブドッラフマーンと共謀したとされる世界貿易センタービル地下爆破事件と世界各地で一般市民を巻き込んだ無差別テロを行っていった。
イラク戦争
アメリカはアフガンのターリバン政権の打倒は果したものの9・11の首謀者ウサマ・ビン・ラーディンを捕獲することは出来なかった。アルカーイダは1998年2月には ビン・ラーディンとザワヒリの連名で「ユダヤ・十字軍に対する国際イスラム戦線」を結成し、「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」と指令している。アルカーイダの最高司令官の指令はメンバーへの行動指示である。しかもこの組織が国際テロリズムのネットワークを築き上げていることから、ウサマの捕獲失敗によりテロの脅威は変らず存続することとなり、アルカーイダ等テロのネットワークへの大量破壊兵器流出の可能性は世界的脅威となった。
アルカーイダがアフガニスタンの拠点を失うことにより、その移動先と考えられ国には、パキスタン、イラン、イラク、イェメン、そしてアフリカ諸国であった。中でも最も疑われる国はイラクであった。
イラクから発生したISIS「イスラム国」の出現を視た現在から振り返れば、‘テロとの戦争’は歴史の評価に耐えうる正当な決断であったと言い得るが、イラク戦争はどうであろうか?
イラクの大量破壊兵器がイラク戦争により見つからなかったことは事実であり、その流出の恐れは遠のいたと言えても、戦争までしての破壊は疑問として残るところとなった。しかしその反省を求めるなら、安保理の構成国家の問題、イラクの独裁フセイン体制の問題を含め、どのような解決方法があったのかを論じることが必要であり、容易に答えは得られない。
正しかった日本の決断=イラク特措法
イラクへの軍事攻撃は国連安保理の決議を得られなかった事は確かであったが日本はそれを超えて米英の決断を支持した。それは日本の立場として当然の選択であった。フセイン独裁政権の不穏な動きは、ペルシャ湾シーレーンの平穏あって成り立つ原油タンカーに依存する日本にとって望ましくない情勢であった。更にアフガン後のイラクにアルカーイダ系のテロリストが多く流れ込んだことは間違いなくイラクのアフガン化のようなことが生じれば最悪である。日本が米英のイラク攻撃を支持したことは正しかったと言えよう。この日本の決断はアメリカ・ブッシュ政権支持の強いメッセージとなり、アメリカの強い信頼を獲得する事となった。
イラクの情勢
米英とイラク正規軍との戦闘は2003年12月にサダム・フセイン逮捕により終了した。アメリカのイラク民主化への期待はイラクの実態とは乖離していた。サダム逮捕直後のサウジ、シリア、レバノン政府はイラクの民主主義国家云々は問題外とし、「せいぜい自分たちの国に攻め込まない国に成って欲しい」という程度であった。エジプト、モロッコ、クウェートは「経済関係を良好に結べる国家」を期待する、であった。アラブ諸国に根強く存在する米国不信の感情が原因し、アラブ諸国においては「民主化とは米国に従順な国家になること」と考えられていた。日本の自 衛隊イラク派遣に対しても「日本は米国を恐れてその圧力に屈している」との見方が一般的であった。そのようなイラク感情の中でイラク南部の非戦闘地域とは言え自衛隊が勝ち得た現地人からの信任には驚くべき熱い内容があった。
佐藤正久・一等陸佐(写真中央)
テロとの闘いとインド洋給油活動
9・11米国同時多発テロを受けて採択された安保理決議第1368号に基づき国際テロの防止・抑止のため米国主導によりアルカーイダやターリバン勢力等の対テロ作戦が実施される一方、米、英、加、NZ等11カ国による国境付近の治安維持活動が展開。また米、英、仏、独、パキスタン、NZ、6カ国によるテロリストの海上移動等を阻止するため、船舶の検査を実施した。
日本は海上阻止活動本体へは参加せず、補給支援特措法に基づき、テロ対策海上阻止活動を行う諸外国の艦船に対する補給支援活動を行う事とした。
海上給油は海上阻止活動を行う外国艦船に日本の補給艦が伴走しながら長期間・安定的に実施できなければならない。そのような装備、高い技術と能力を持ち合わせる日本の海上自衛隊が最適であり、その活動は各国からの高い評価と感謝を受けた。
カナダ艦船(左)に燃料を補給する「おうみ」(右)
海上自衛隊は、国際テロを防止する艦艇が頻繁に寄港しなくても、長期間の活動が継続できるよう、燃料や水を洋上補給することで海上阻止活動を支援した。
脚注
1国連平和維持活動(PKO)協力法
PKO参加五原則があり、1)紛争当事者間で停戦合意が成立している事2)紛争当事者のPKO 派遣の同意3)中立的立場の厳守、という1)〜3)の条件が満たされない場合には日本単独での撤収が可能とし、武器使用は要員防護のための必要最小限に限る、とした。しかし「要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られる」とある事については、実態と乖離していると指摘されるようになり、現在、他国の部隊が攻撃された場合、これを救助することを可能にする「駆け付け警護」の許可など、使用基準が緩和された。
2ルワンダ難民救済
ルワンダ共和国における内戦を契機に周辺国に流出した大量の難民は、コレラ、赤痢などの蔓延により多数の死者が出るなど、極めて悲惨な状況にあった。我が国は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の要請を受け、国際平和協力法に基づく初めての「人道的な国際救援活動」への協力として、医療、防疫、給水、空輸などの分野で救援活動を行うため、1994(平成6)年 9月から12月までの間、ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)のゴマなどに、自衛隊の部隊などを派遣した。(国際平和協力本部事務局HPより)
3UNDOF(中東のシリア・アラブ共和国南西部のゴラン高原に展開する「国連兵力引き離し監視隊」)
我が国は、1996(平成8)年2月から、中東のシリア・アラブ共和国南西部のゴラン高原に展開する「国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)」に要員・自衛隊の部隊を派遣し、司令部業務及び輸 送などの後方支援業務を行ってきた。2012年12月、UNDOFにおける当該自衛隊の部隊及び司令部要員の活動を終了し、2013(平成25)年2月までに、我が国の要員は帰国した。(国際平和協力本部事務局HPより)
4国連安保理決議1368
国連安保理決議1368は、2001年9月11日のアメリカ同時多発 テロ事件を受け、同事件の被害国であるアメリカ合衆国及びその同盟国について、その前文において個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識すると定めている。
5イラク特措法
「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(イラク特措法):活動の柱は人道復興支援活動と安全確保支援活動である。活動は「非戦闘地域」に限定されていたが、戦闘地域ではないかとの論議のある地区への派遣であった。自衛隊イラク派遣は、イラク戦争初期の2003年(平成15年)12月から2009年(平成21年)2月まで行なわれた。
(ウィキペディアより)
原油価格の動向とOPECプラスの今後
投資アナリスト 渡辺国栄(わたなべくにはる)2020年、世界の株式市場で歴史的大暴落が起こった。1日の下落幅はアメリカダウで史上最大の2000ドル以上を記録し、その下落のスピードは100年に一度の危機と言われたリーマンショックを越えた。原因は、言うまでもなく新型コロナウイルスである。この感染拡大に連動した世界株式市場における暴落は現時点で収束したとは言えず、どのように推移して行くのか見通すことは難しい。
一方、株価の暴落と同時に起こっているのが原油価格の暴落である。新型コロナウィルスの蔓延がひとつの契機となっての原油価格の下落であるが、原油価格の暴落は株価のさらなる下落に拍車をかけたことは間違いない。
原油価格が暴落するに至った背景と経緯とともに、今後の原油価格と世界経済の動向について触れたい。
原油価格(WTI)の直近10年の推移
原油価格(WTI)の近年の推移を見てみよう。2008年のリーマンショックでは信用収縮が起こり、リスク商品は何もかもが売られ、直前につけた高値147.27ドルから半年で原油価格は32.40ドルまで下落した。その後、売られ過ぎの反動もあり、金融危機が落ち着くとともに原油価格はV字回復をして、2011年には114.83ドルの高値をつける。
再び下落するのが2015年末から翌年の年初にかけて最安値26.05ドルをつける。この時の急落の原因はアメリカのシェールオイルの開発と生産量の増大であり、原油供給量の増大により需給の緩みが生じ、原油価格は下落した。シェールオイル開発により現在ではアメリカは原油生産量世界第一位となっている。OPEC並びにロシア等OPEC非加盟国は原油価格下落を受けて、2016年12月、15年ぶりの協調減産を決定した。それにより原油価格はそれ以上下落することはなく、その後は、概ね50~70ドルで安定的に推移した。
OPECプラスと協調減産
OPECは2018年末ロシア等他の産油国を加えたOPECプラスを立ち上げた。OPECのシェア減少とともにその影響力の限界からの必然の成り行きと言える。
さて、昨年から世界経済の景気後退懸念による原油価格は上値が重い動きが続いた。今年3月5日の原油価格は45.65ドルであったが、翌6日には41.05ドル台に急落し、さらに9日には一時27.34ドルをつけるまでの歴史的急落を記録した。その後、リーマンショック以来の最安値であった26ドル台で下げ止まらず、現在、じり安で推移しており、20ドル割れを試す動きとなっている。
この原油価格下落の原因はOPECプラスでの協調減産の決裂であった。OPECプラスは2019年12月に決定した170万バレルの減産規模をさらに150万バレル拡大することで3月5〜6日協議を行った。減産拡大の理由は新型コロナウイルスの影響による原油需要の大幅減退だ。先立つOPECのみの会合では150万バレル追加減産に合意していた。しかし、ロシア等を加えたOPECプラスでは、減産拡大にロシアが異を唱え協調減産は決裂した。
市場から見てこれだけでもサプライズであったが、その後サウジアラビアが増産を表明したことで市場は大混乱となり、節目の20ドル割れまで一気に売り込まれた。
協調減産決裂の裏での各国の実状と思惑
ロシアはもともと減産に対しては積極的ではなかった。しかし、原油価格の下落はロシアにとっても当然、好ましいことではなく、OPEC非加盟国として、また最近ではOPECプラスの一員として、協調減産には応じて来た。
しかし、アメリカのシェールオイルが減産の枠組みに参加しない中でこれ以上の減産はシェールオイルを利するだけという思惑、加えてコロナウイルスの影響がどこまでなのかが不透明な中で、減産拡大の効果に疑問を呈し、新型コロナウイルスの影響を見極めてから判断すべきとし、それまでは現在の水準での減産を続行することが妥当、という主張であった。
ロシア国家予算の歳入に占める原油、ガスによる収入の比率は40%程度と大きい。原油価格が高騰し歳入が大きい時は「国民福祉基金」に組み入れられるが現在そこに1500億ドルが積み立てられている。
財政均衡上、必要とされる原油価格は40ドル台前半とされる。しかし足元で20ドル近くまで原油価格は下落しておりこれがそのまま続けば300億ドルの歳入減が見込まれる。プーチン政権は積立金により6~10年は耐えられると強気の姿勢を崩していない。しかし、原油価格の下落によりGDPは0.9%減となる見通しで、ロシアの通貨ルーブルは急速に下落しており、ロシア経済に与える影響は決して小さくはない。
かつて80年代アメリカレーガン大統領の時、原油価格の下落がロシア経済を疲弊させ、それがソ連邦崩壊につながった経験があり、原油価格の下落は、決して過小評価することはできない。
サウジアラビアはOPECの盟主としての立場から長年原油価格の安定に寄与してきた。OPECプラスの減産の枠組みに加えて、サウジアラビアが自主的にさらなる減産を行っても来た。従って、ロシアの協調減産拒否に対して逆に増産を表明することで全面的に価格競争に打って出たことは、これまでの原油の需給構造の前提を根本的に変える行動とみなされ、市場に衝撃を与えた。
サウジアラビアの原油生産コストは10ドル程度と他の産油国に比べて非常に低い。価格競争が起これば非常に有利な立場である。しかし、一方で財政に占める原油の割合は7割と非常に高く、財政均衡上80ドルが必要と言われている。
サウジアラビアのムハンマド皇太子
また、サウジアラビアの国有石油会社サウジアラムコが1919年12月株式上場を行った。上場までは原油価格をなんとしても維持したいという思惑が働いたことは容易に想像ができる。上場により史上最大の調達額を記録し、上場時の時価総額1.88兆ドルはアップルの約1.2兆ドルを抜いて世界最大である。その後、目標の時価総額2兆ドルを達成するも3月8日には原油価格の下落の影響で株価は新規公開価格を下回り、弱含んでいる。これは、サウジアラビアの経済改革に打撃となることは確実である。しかし、すでに上場を果たしていたことは今回の行動に影響があったのではないかと推察される。
世界最大の産油国となったアメリカはどうだろうか。シェールオイルの生産コストは50ドル程度と言われている。それを大幅に下回る20ドル台の原油価格が長期間続けば、シェールオイルの生産会社にとっては大きな圧迫要因であり、倒産する会社が続出することになる。シェールオイル会社は多額の資金を社債により調達しており、社債市場の混乱から金融危機に発展するリスクをも孕んでいる。今回の原油価格の暴落でもっとも被害を受けるのは明らかにアメリカのシェールオイル会社である。したがって今後のアメリカの出方を注視することが必要だ。
新型コロナウイルスと世界経済
新型コロナ感染者数(水色)と死者数(灰色)の推移
原油価格の今後を考える上で、新型コロナウイルスの影響が大きな要因となる。想定以上に深刻化して、また長期化して行くようであれば原油需要の落ち込みはさらに大きくなって行く。新型コロナウイルスは、かつて人類が体験したことのない脅威であり、その帰趨がどのようなものなのか市場は測りかねている。不透明であるがゆえに、株式市場において、その下落幅は過去最大を記録して、しかも下落の速さが凄まじい。
チャートの形状が1929年の株価暴落と非常に似ているという指摘がある。1926年の株価暴落はその後、世界恐慌をもたらした。中国武漢から始まった新型コロナウイルス感染は現在、イタリア、フランス、ドイツ、さらにはアメリカにまで拡大しており、外出禁止などの措置により経済活動の多くがストップされている。人、物の移動が制限され、経済に対する影響は甚大である。
現時点で新型コロナウイルスの影響を見通すことは難しい。しかし、いずれにしろ、時期は不明ながらも新型コロナウイルスはいつか収束すると考えられる。それに伴い、原油の需給も徐々に回復するであろう。
新型コロナウイルスの影響が長期化して、原油価格競争が長期化するならば、原油価格は低迷し、産油国の多くは経済的に疲弊することが考えられる。アメリカのシェールオイル会社も破綻する会社が続出するだろう。それら一連のことが起こった後、原油の需給構造は大きく変容することが考えられるが、具体的な姿については予想することは難しい。OPECプラスの枠組み及び、原油価格の調整機能はこれまでのものが有効に機能しなくなり、自ずと変わらざるを得ないだろう。
また、協調減産決裂でサウジアラビアとロシアのチキンレースの様相を呈している現状で原油価格の下落の大きさは非常に大きく、これによって利益を得る国はどこもない。近いうちに双方が歩み寄り、再び協調減産に合意するであろうという見方である。逆ギレとも言われた今回のサウジアラビアの行動もロシアに協調減産を促すためのものである、という。しかし、表舞台でここまでの決裂はお互い、それ相当の覚悟と計算があってのことだと考えられ、関係修復はそう楽観的ではないように見える。
それでも、もし協調減産合意に至るならば、OPECプラスは再度、原油価格調整の主動的役割を担うことになり、原油価格は新型コロナウイルスの収束状況次第で徐々に上昇、安定化することになるだろう。
また、これまでのOPECプラスの枠組みでは限界があることを露呈した形で、原油価格の調整を有効に機能させるには、アメリカをこの枠組みに参加させることが、考えられる。それはロシアの主張に沿ったものである。しかし、ロシアやサウジアラビアと異なり、アメリカのシェールオイル会社は私企業であり、国家同士の協調減産に加わることには難しさがある。それでも、現状のように原油価格の乱高下、特に極端な安値が続くならば安定的な企業運営ができず、破綻リスクから免れないならば、何らかの形で協調減産の枠組みに参加することはシェールオイル会社にとっても有益となる。
まとめ
原油価格は経済の体温計とも言われる。新型コロナウイルスを原因とした株価暴落も協調減産決裂とサウジアラビアの増産表明のあったその日から、株価下落に拍車がかかった面がある。原油価格の回復は株価の回復、世界経済の回復とセットである。
産油国の協調、新型コロナウイルスの収束、など諸課題がひとつずつ解決に向かい、世界が再び、安定と活力を取り戻すことに期待したい。