201705

「イラク・シリアのイスラム国」(IS)壊滅へのカウントダウン

NPO法人サラーム会会長 小林育三

電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2017年5月, 夏季号より

2014年6月29日、イスラム過激組織ISISが「イスラム国」樹立をインターネット上に宣言してから今年で丸3年を迎えようとしている。現状から視れば「イラク・シリアのイスラム国」は既に崩壊していると見做すことができる。しかしイラクの第2の都市モスル西側にある根拠地とシリアの都市ラッカの根拠地は未だ陥落に至ってはいない。両根拠地を死守せんとするISは「人間の盾」作戦を展開している。民間人の犠牲を少なくするために陥落までの時間は要するであろうが、陥落に向かってのカウントダウンに入ったことは間違いない。


2017年3月6日、モスル西部地区を進軍するイラク治安部隊。翌7日、同治安部隊はISから主要政府庁舎ビルを奪還した(VOAニュース)。

「イスラム国」の衝撃

それは、中東の国境が液状化するのではないか?という衝撃であった。第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て世界が認識し確定した国境が完全に無視されるかっこうで「イスラム国」はシリアとイラクに跨がる領域を「国」として宣言したからである。


2014年7月当時のイラクとシリアに跨がるISIS支配領域図(地図上のピンク色着色部分)

イラク政府もシリア政府も存在しているとはいえ、当事国内の支配能力を失い、国民がISISに拉致され従わない者が暴行を受け虐殺され難民とならざるをえない状況が拡大していく予測のつかない事態に陥ったのだ。‘世界が「イスラム国」を認めない’と言っている間にISISの実効支配は拡大し周辺諸国の国境なども、砂漠に引かれた線のように消えて行くのではないか?という強い危惧が拡がった。


2014年5月26-28選挙で大統領に当選したエジプトのシシ大統領(エジプト第二革命)

2010年末チュニジアで始まったアラブの春はチュニジア、エジプト、リビアの長期独裁政権を倒し、イスラム型の民主主義国家へと移行するのではないかという期待を抱かせた。しかし期待に叛し国家は弱体化し、権力の空白が生じ、混乱ばかりが拡大し、内乱・内戦状況に至った。かろうじてその状況を克服しなんとか政情を安定させることができた国はチュニジアとエジプトであったが、リビアは未だに政権を担い得る政府の誕生に至っておらず分裂国家の様相を呈したままだ。

既存の国家体制すべてを否定する「イスラム国」

過激派組織ISISは①アブバクル・バグダディをカリフに押し立てイスラム「国」を宣言した。イスラム法に基づく国家の実現を目指すとし、ジハードの対象を既存の全ての国家体制のみならず‘目指す政教一致の原初的イスラム国’に反対するすべてをジハードの対象とした。

ムスリム同胞団は、エジプトにおいてイスラム主義に基づく体制の確立を目指す中、同胞団思想の中に潜在する過激イデオロギーが生み出したジハード団がアンワール・サダト大統領を暗殺した(1981年10月)。「イスラム主義」に反する者に対し武力とテロを「ジハード」として断行した事件であった。

ムスリム同胞団に学生時代入団したウサマ・ビン・ラーディンはジハード思想を持ってソビエト軍のアフガン侵攻に対する②ムジャーヒディーン闘争に参加し、③1988年にアルカイダを創設した。その約10年間に、後にイラクの反米闘争の中心的人物となったザルカーウィとの関係を構築したとされる。

核心的アルカイダのメンバーとなった④ザルカーウィは、2002年イラクのファルージャに潜入し2003年3月のイラク戦争後2006年6月まで激しい反米闘争を繰り広げた。
彼が2006年6月米軍の空爆で死亡した後、組織は「イラク・アルカイダ」が中核となってムジャーヒディーン闘争参加のグローバル・ジハード戦士を加え反米・反マリキをスローガンとしてとして統合を進め、10月には「イラク・イスラム国」を名乗った。⑤アルカイダ(基地)から領域支配へと戦略を変更したのだ。

2010年10月には「イラク・イスラム国」はアブバクル・バグダディをアミール(司令官)に押し立てた。以上の経緯から観て「イスラム国」(ISIS)は既存国家体制内での変革を志行するムスリム同胞団を逸脱したジハード主義者であり、アルカイダと同じテロ組織であり、ジハード路線の違いによってアルカイダと袂を分けただけなのである。

「イラク・シリアのイスラム国」

領域支配に戦略を定めた「イラク・イスラム国」は反米・反マリキ・反シーアを掲げ「アメリカの押しつけによる民主主義とそれに結託したシーア派マリキ政権は失敗した」と断じ、スンニ派の元バース党員、旧フセイン政権時代の幹部、情報機関、軍人、官僚を巻き込んでいったのである。


シリアのホムスで2011年4月18日起きた大規模な反アサドデモ(ウィキメディア)

2011年3月、アラブの春はシリアにも飛び火し地元の反政府運動として生じたがアサド政権は残虐な弾圧で応えた。地元各地で生じた部族による反政府運動と海外からの支援を受けた「シリア国民連合」が連結できない状況下、他のアラブ諸国からアルカイダ系のグローバル・ジハード戦士がシリアに流入してきた。この状況を好機ととらえた「イラク・イスラム国」は2011年8月にはその主要構成員の一人であるシリア人ゴーラーニーをISの拠点形成のためとしてシリアに送り込んだ。


ヌスラ戦線

しかし彼はシリア北部で「ヌスラ戦線」を結成した後、イラク・イスラム国の傘下に入ることを嫌いイラクのISと距離を置き、地元シリアのイスラム過激派諸派(イスラム戦線)と共闘するようになった。

そのような経緯もあって、「イラク・イスラム国」は2014年6月20日にイラクのモスルを制圧した後には、その余勢をもって直接シリアのラッカを支配し、6月29日に「イラク・シリアのイスラム国」(ISIS)として登場したのであった。

イラク駐留米軍完全撤収の負の影響

「テロとの戦争」に早く見切りをつけたかった米オバマ前大統領は2011年12月にイラクの駐留米軍を完全撤収させた。


オバマ大統領、バイデン副大統領、カーター国防副長官、デンプシー統合参謀本部議長、オースチン陸軍大将(イラク駐留米軍最後の司令官)は最後のわずかな撤退部隊の家族とともに歓迎式典に臨んだ=2011年12月20日、アンドリュー ス統合基地(米国防総省提供)

しかしこのことは中東全域に間違ったメッセージを与えた。「アメリカはアメリカ型のイラク民主化を投げ出した」との印象を与え、イスラム型の民主主義を実現すべきだという意識を高揚させた。アラブ諸国の大衆が希求する漠然としたイスラム型民主主義は反米民主主義の方向に誘導されイスラム主義者の唱える反米運動に利する結果となった。

さらに間違ったメッセージは、イスラム過激派による武装闘争によって米軍をイラクから敗退させたのだというイメージを与えたことである。その印象はムジャーヒディーン闘争でソ連軍を敗退に導いた戦いの立役者ウサマ・ビン・ラーディンを英雄視した過去を彷彿とさせ、「イラク・イスラム国」のジハード戦士を英雄視することに結びついたのであった。したがってイラクの反米過激派を勢いづけただけでなく、アラブの春の運動全体が過激派に主導される流れとなったのである。


2013年7月6日、モルシ氏が政権の座を追われた後、エジプト各地でモルシ支持者と反対派が銃撃を含む衝突、数人が死亡、数十人が負傷した。

イラク国内においては、⑤第二次マリキ政権(シーア派)の失政によって旧フセイン政権の幹部や残党を「イラク・イスラム国」の支持へ追いやる結果となったのである。


CNN のインタビューに答えるハシミ副大統領:米国務省はイラクのハシミ副大統領に逮捕状が発行されたことに懸念を示し、状況を注視するとした。イラク駐留米軍の撤退は18日に完了している。 ハシミ副大統領は宗派対立の再燃を警告、マリキ首相への批判強める。(2012.01.31 Tue posted at: 09:19 JST)

急速に基盤拡大を果たした「イラク・イスラム国」は、2014年1月にバグダッドから60キロのファルージャを制圧し、続いてイラク第2の都市モスルを制圧するに至った。ここにいたってマリキ政権の統治権の及ぶ範囲はイラク国土の半分に縮小したと言って過言ではない。イラク北部のアルビルを中心とする地域はクルド人による自治区であったし、モスルからファルージャに至るイラク北西からイラク西部、さらにシリアのラッカからデリゾール地帯の交通要所をISISに押さえられる状況となったからである。

マリキ政権はISIS掃討のため、アメリカに軍事支援を要請したがオバマ前大統領は軍事顧問団を送るのみの対応であった。ISISの迫害を逃れて難民化したクルド人はアルビルへ移動する事態が日常茶飯事となった。


ISの攻撃からシリア側に逃れるヤジディ教徒(2014年8月14日付 The Huffington Post)

そのような中、イラク北部シリアの国境に近いシンジャールのヤジーディ教徒(キリスト教)が山岳地帯に5万人が取り残され、ISISに改宗を迫られ、拒否すれ全員殺害されるのではないかというニュースが流れた。オバマ前大統領は彼らを救うため空爆を実行した。

「空爆と国際的IS包囲網」戦略に舵を切った米オバマ前大統領


ケリー米国務長官はイラクのアバディ新首相と会談=9月10日、バグダッド

米オバマ前大統領はムスリム同胞団を非暴力的(民主的)社会運動とみなし、イスラム型民主主義国家への移行を担う勢力として期待したのである。しかし「イラク・シリアのイスラム国」の誕生に直面し戦略の見直しを余儀なくされた。ヤジーディ教徒救出のための5日連続の空爆はそのきっかけとなった。

オバマ前大統領はイラクに対してはマリキ首相に失政の責任を求め退陣を迫り、後任のアバディ首相(シーア派)に挙国一致内閣成立を約束させ、「空爆支援」戦略に踏み切った。


ケリー米国務長官は湾岸協力会議・地域パートナー会合の参加者と記念写真ー9月11日、サウジアラビアのジッダ

一方内戦に陥ったシリアは、米大統領がアサド政権の退陣を求めても父親ファハズ大統領時代からの親ソ路線の色濃い政権がアメリカの勧告に従うとは考えられない。さらに化学兵器を使用した政権に対する制裁はEUと一致した立場であるので、IS掃討をアサド政権と協力して行うこともあり得ない話であった。結局「国際的IS包囲網」戦略となったと言える。


2014年9月23日、紅海やペルシャ湾に展開したミサイル駆逐艦アーレイ・バークからトマホークを発射して口火を切った。使用したトマホークは計47発

2014年9月から、米オバマ前大統領は「ISを解体し、壊滅させる」として欧州を歴訪し、ケリー国務長官は湾岸諸国を根回し支持を取り付けた。その上で9月22日、シリアに対する空爆を実行した。米軍とアラブ合同軍が共同でシリア空爆に踏み切った。そして9月24日の国連総会でオバマ前大統領は「有志連合」への参加を全世界に呼びかけた。

米主導有志連合VS「イスラム国」


米国とアラブ連合軍が行ったシリアのIS拠点空爆について説明する米国のメイビル中将= 2014年9月23日、ペンタゴン

米軍とアラブ合同軍は9月23日シリアのイドリブ、アレッポ、ラッカにあるIS軍事拠点を空爆した。ペルシャ湾に展開した駆逐艦からはミサイル(トマホーク)が発射され、空母ジョージ・ブッシュからはF18戦闘機が飛び立ち、戦略爆撃機B1, F16戦闘機、無人機プレデターも攻撃に参加した。

米主導の有志連合には60カ国が参加したが温度差のある参加であった。フランスは当初空爆に参加していない。理由はアサド政権と戦うイスラム国(IS)を攻撃すれば、結果的にアサド政権に利する、としていたからである。しかしシリア難民が欧州に殺到する事態を受け方針を転換し2015年9月27日、シリアを初空爆した。


フランスは2015年9月27日、シリアで初の空爆を行い東部のIS訓練キャンプを破壊したと発表した。写真は爆撃を行った同型の仏戦闘機ラファール(米海軍提供)

トルコも当初は有志連合に対し空爆拠点として国内のインジルリク空軍基地使用を認めただけだった。しかしシリア側から越境してのISによる自爆テロが相次いだため2015年7月24日にシリア国境近くのIS拠点をはじめて空爆した。


2015年9月12日、アサド政権支配のラタキア空軍基地にロシアの大型輸送機2 機到着。= 9月16日付世界日報

ロシアは当初、有志連合のシリア空爆は国際法違反だと非難していた。地中海に唯一ロシアに提供された軍港をシリアのタルトゥスに持つロシアはシリア問題に介入する機会をうかがっていたと思われる。アサド政権も窮地を打開するためにロシアに支援を求めた。そこでロシアは2015年9月30日空爆を決定しラッカを空爆した。

ロシアの参戦は有志連合とは一線を画した空爆であるだけでなく、IS掃討を建前としながらシリア・アサド政権支援が目的であった。ロシアの空爆参戦はシリア情勢をより複雑にした。

「イラクと・シリアのイスラム国」の崩壊

イラク軍は有志連合の支援を受け、イラクのシリアへ通じる交通の要衝ラマディを2015年12月28日にISから奪還し、2016年に入り6月末にはイラクのファルージャを全面奪還した。

一方シリアではラッカ周辺の村々は米軍の支援を受けたクルド人民兵が主体なってラッカ包囲網が形成され、トルコもシリアとの国境地帯を軍事的に制圧しISを排除した。シリアとイラクの国境の要所シンジャールもISから奪還した。ISは逃げ場を失い追い詰められただけでなく、シリアとイラクの国境を行き来する支配権を失い原油密輸のルート、兵器調達ルート、義勇兵を募り迎え入れるルート等を失うこととなった。このことによって「イラク・シリアのイスラム国」は事実上分断され崩壊したのである。

2017年に入って、モスル包囲網は一層狭まりモスルの西側を残すのみとなっている。

東部デリゾール地帯はシリア政府軍に奪還され、ラッカ包囲網も狭まりつつある。つまり
ISはイラクの根拠地モスルとシリアの根拠地ラッカでの籠城状態となったと言って良く、両根拠地の陥落はカウントダウンの局面に入ったのである。

イラクとシリアの根拠地が陥落すれば、ISの中枢が壊滅することになる。中枢部の司令塔が破壊されることにより、指揮命令系統が破壊され、ITを駆使する戦略も大幅にダウンする。領域支配に転換した「イスラム国」の戦略は点在するアルカイダ(基地)へと押し戻されたことになる。

イラクの今後とシリア和平

アバディ政権(シーア派)はモスルを陥落させた後、スンニ派に対し公平な挙国一致内閣を推し進めることができるかが最大の課題と思われる。

それに対し、シリアは他国から流入したグローバル・ジハード戦闘員、アルカイダ・IS戦闘員の掃討と過激なジハード主義者のあぶり出しが最優先される課題となる。そしてアサド政権と反政府側グループ、UN、周辺アラブ諸国、トルコ、欧米、露による徹底した停戦合意。その次にアサド政権の処遇問題をはじめとする新政府樹立へと協議が進むことが願われるのではないか。

今ISは権力の空白が生じている地域、国家権力の及びにくい領域に新たなIS支配拠点を移し拡散を計っている。アフガン、イェメン、リビア、ソマリア、アフリカ・サヘル地域、パキスタン、インドネシア、フィリピン南部等々。このような動きに対しイラク政権と新シリア政権はシリア・イラク国内にIS戦闘員を封じ込め殲滅する責任がある。


注)

  1. アブバクル・バグダディ:2014年7月4日、イラクの第2の都市モスルのモスク(ヌーリー・モスク)で行われたとされる金曜礼拝の演説映像。カリフ・イブラヒムを名乗った。
  2. ムジャーヒディーン闘争:全体的にはソビエト軍のアフガニスタン侵攻から敗退まで、1979年-1989年の約10年間、ソビエト軍とのゲリラ闘争を指す。イスラム教の大義に則ったジハードを遂行する者が戦闘に加わったとしてムジャーヒディーン闘争と称された。
  3. 1988年にアルカイダを創設:ウサマ・ビン・ラーディンは個人とサウジアラビア総合情報庁からの資金でムジャーヒディーンのスポンサーとなった。学生時代の師であるアブドゥッラー・アッザームとともに「サービス局」を開設し、エジプト、スーダンからムジャーヒディーンをリクルートした。1988年頃アフガニスタンでの活動を優先させようとするアッザーム派と路線対立で分裂。8月にビン・ラーディンを中心にジハード団からのメンバーとアルカイダを創設した。(ウィキペディアより)
  4. ザルカーウィ:本名アハマド・アル・ハラーイラ、ヨルダン人。ヨルダン王打倒を目指し、ウサマ・ビンラディンに忠誓を宣言したとされる。シーア派をもジハードの対象としイラクを内戦に引き込んだ。サダム・フセイン政権との繋がりがあるとされたが調査結果否定された。2006年6月、米軍の空爆で死亡。
  5. アルカイダ(基地)から領域支配へと戦略を変更:アルカイダの理論家スーリーの戦略が取り入れられたと思われる。スーリー(本名アブー・ムスアブ・アルスーリー)の戦略とは東京大学准教授池内恵氏によれば「単発テロは国際社会を恐怖に陥れる広報・宣伝戦であり、アラブ諸国やイスラム諸国に混乱が生じれば、大規模に組織化・武装化して領域支配を行う」とされる。
  6. 第二次マリキ政権(シーア派)の失政:ハシミ副大統領(スンニ派)に対し刑事訴追すべくイラク司法機関は逮捕状を出した。ハシミ副大統領は外国へ亡命することとなったが、スンニ派の反マリキ運動は一気に拡大し過激派組織「イラク・イスラム国」の勢力拡大に繋がった。

記事の続きは、電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2017年5月, 夏季号にて…