201411

「イスラム国」の衝撃から3ヶ月―空爆と包囲網に舵を切った米戦略

サラーム会会長 小林育三

電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2014年11月, 冬季号より


9月17日、米フロリダ州タンパのマクディール空軍基地で、イスラム過激組織「イスラム国」に対する軍事作戦を指揮するオースティン中央軍司令官(右)と握手するオバマ大統領(左)(米国防総省提供)

突如「イスラム国」樹立を宣言し、アブバクル・バクダディを「カリフ」(預言者ムハンマドの後継者)と指名したISIS(イラクとシリアのイスラム国)。イスラム教スンニ派過激組織による暴挙は高度に訓練された軍事力と残虐極まりない処刑をネットに流すその戦術により世界を震撼させ、中東の国境を液状化するかもしれないとの衝撃を与えた。

シリア内戦に有効な戦略を施しえず、中東戦略を見直さざるを得なくなったアメリカオバマ政権は3ヶ月を経過し、空爆と有志連合による包囲網戦略へと舵を切った。

事態の深刻さをいち早く発信した宮家邦彦氏

キャノングローバル戦略研究所研究主幹で中東アナリスト宮家邦彦氏は産経新聞「World Watch」(6月19日)に「液状化する肥沃な三日月地帯」と題し、氏のオピニオンを載せた。6月10日イラク第二の都市モスルがISISに制圧されたことに「ショックを受けた。なぜこれを予測できなかったのか。中東アナリストの端くれとして大いに恥じ入った」と率直に胸のうちを明かし、1月6日のメモを紹介している。

「正月早々ショックだったのはISIS がファルージャを制圧したというニュースだ。・・・ファルージャといえば2004年春、米軍が大規模掃討作戦を行ったスンニ派地域。同時期に日本人の若者3人が『人質』となったことでも有名な町だ。あれから10年になる。・・・ファルージャはイラクのアルカイーダの拠点だったが、結局米軍による掃討作戦は成功せず、その後武装勢力のテロはイラク全土に広がった。・・・」

少々長くなったが当時の状況を思い出すため引用させていただいた。氏にとって恐れていたことが10 年経って現実となったことがショックであったというのである。

サダム・フセイン逮捕後10年間のイラク情勢

1)サダム・フセイン逮捕

2003年12月14日、アメリカはイラクのサダム・フセイン大統領逮捕を区切りとして新生イラクの出発を期待した。しかしアメリカのイラク民主化にかける思惑とアラブ諸国との間にある民主化の思いとの乖離は続いた。サダム逮捕直後のサウジ、シリア、レバノン政府はイラクの民主主義国家云々は問題外とし、「せいぜい自分たちの国に攻め込まない国に成って欲しい」というものであった。エジプト、モロッコ、クウェートは「経済関係を良好に結べる国家」を期待する程度であった。

アラブ諸国に根強く存在する米国不信の感情が原因し、アラブ諸国においては「民主化とは米国に従順な国家になること」と考えられている。日本の自衛隊のイラク派遣に対しても「日本は米国を恐れてその圧力に屈している」との見方が一般的であった。ただ日本が人道的・経済復興支援をしてくれる限りは大歓迎、というのに対し、アメリカに向かっては「イラクの占領を早く終了させ、イラクから出て行くことが願いだ」と言って憚らなかった。

当時、親米穏健派であったエジプト、ヨルダン、チュニジア等の民主化に対する考えは、「民衆から高まる民主化要求を吸い上げ、欧米からの民主化要求に対する直接干渉をかわしつつ、民主化プランを提示していくべきだ」というものであった。しかしアラブ連盟会議でまとまることは無かった。

2)アメリカブッシュ政権主導の政権移譲

アメリカはそのような乖離を解消できないまま、2004年1月20日のブッシュ大統領年頭教書演説ではイラク評議会バチャチ議長を招き、「自由で平和な国家をつくること」を期待した。その年頭教書演説は2003年11月15日米国が主導する米英占領当局(CPA) とイラク統治評議会により作成・合意された2004年6月30日までの移譲計画を世界に発表する場であった。

しかし3 月末にはファルージャにおけるスンニ派ガンマンによる4人の米国人虐殺、シーア派サドル師率いる武装勢力によるバグダッドでの米軍兵士殺害、その後暴力はさらにエスカレートした。イラク南部ではサドル師と連携する武装勢力が4 つの都市で攻撃を仕掛け、政府ビルを占領し米軍撤退を約束させている。(旧季刊サラーム22号3P久保田秀明氏記事引用)

したがって、このような状況で政権移譲の期限とした6月30日を守るべきか否かの議論は昂まっていた。しかしブッシュ大統領はイラクでの移譲期限を変更せず実行した。

そしてラクダル・ブラヒミ国連特使に、スンニ派、シーア派、クルド族間の権力分割を暫定政権の基礎として受け入れさせる任務を委託した。又、米国はイラクにおける国連代表団を保護するための国際派遣軍に加わるよう10カ国以上に要請した。そして国務省は6月30日以後の米主導の連合軍への国連承認を取り付け、新生イラク政権に国際的正当性を付与すると共にイラクにおける国連の役割を定義したのである。(旧季刊サラーム22 号4-5P 久保田秀明氏記事要約)

3)新生イラクの政治プロセス

イラク政治のプロセスは、2004年6月28日、連合暫定施政当局(CPA) からイラク暫定政府に統治権限を移譲。2005年1月30日、国会選挙実施(投票率58%)。・・・移行政府発足、憲法草案についての国民投票実施、承認。2005年12月15日、憲法に基づく国会選挙。2006年4月22日、イラク新政府の国会議長にマシュハダーニー氏(スンニ派)、大統領にタラバーニー氏(クルド)が選出された。5月20日、40 名の閣僚が承認され、任期4年のイラク新政府が発足。同大統領がマリキ氏(シーア派)を首相に指名。2008年11月27日、イラク国会が米軍駐留に関する協定案を承認。2010年12月20日、第2 次マリキ政権発足。

アメリカ軍完全撤退直後から表面化した政情不安定


オバマ大統領、バイデン副大統領、カーター国防副長官、デンプシー統合参謀本部議長、オースチン陸軍大将(イラク駐留米軍最後の司令官)は最後のわずかな撤退部隊の家族とともに歓迎式典に臨んだ。= 2011年12月20日、アンドリュース統合基地(米国防総省提供)

8年9ヶ月に及ぶ米軍のイラク駐留は2011年12月18日その撤退を完了した。

その直後12月19日、イラク司法機関は「反テロリズムに違反した」として①ハシミ副大統領(スンニ派)の逮捕状を発行した。ハシミ副大統領が政府要員と治安要員に対する爆破攻撃を指示した、とされたのだ。反発したスンニ派は議会をボイコットし、北部クルド人勢力はハシミ副大統領を支持した。当の副大統領はイラク北部クルディスタン地区(クルド人自治区)へ逃れたとされ、アルビルCNNのインタビューに「マリキ首相はこの国を宗派対立の危機に陥れている。宗派対立が再燃すれば一旦撤退した米軍の復帰が迫られる可能性がある」と警告し「軍最高司令官、国防相、内相、国家安全保障相を兼任するマリキ首相をイラクや米国の一般国民はなんと呼ぶのか?」と反問し、暗に独裁者であると非難した。

政情不安定を待っていたかのように2012年3月には首都バグダッドなど全国14箇所で爆弾テロが発生し少なくとも44 人が死亡した。3月27日から3日間アラブ連盟首脳会議(21カ国、1機構加盟)は辛くも開催されたがその矢先の出来事だっただけにマリキ政権の面目は無残につぶされ、米軍撤退後の治安が脆弱であることを内外に示すこととなった。

「イスラム国」の衝撃

1)シリア内戦を利用したISIS


アブバクル・バグダディ

シリアからイラクまでのレバント地域と呼ばれる領域を対象としたイスラム国、と自称したことにはその制圧可能な領域を意識してのことのようだ。また、シリアの内戦に乗じて、ジハード団、アルカイダ系ヌスラ戦線との共闘、分離を経ながらも中核はイラクのアルカイダのようである。カリフに指名されたアブバクル・バクダディは初代カリフとなったアブバクルと同じ名前であり、バグダディとは“バグダッドの”という意味といわれるので、一種のスローガンを名前にしたとも考えられる。


アブムサブ・ザルカウィ

2006年6月8日、イラクで大規模な無差別テロを繰り返していた(②香田証生氏を殺害)ヨルダン人ザルカウィは米軍の爆撃によって死亡した。ザルカウィはシーア派や外国人まで「神の敵」と決め付けテロを実行する危険な人物であった。彼の死後すぐにアルカイダは「ジハードの継続」を宣言していた。したがってアルカイダ系ジハード団が勢力を温存しながらアラブの春、特にシリアのアサド政権への反政府運動と連帯した事は容易に推測される。

しかし現在シリアの民主化を求めてアサド政権打倒を目指す反政府運動と、ヌスラ戦線やイラク・アルカイダの目指すアサド政権打倒に対する考えは根本的に異なっていた。ヌスラ戦線とイラク・アルカイダは反政府勢力内でのヘゲモニー争いを繰り返していたのである。


アイマン・ザワヒリ

ウサマ・ビン・ラディンの後継者と目されるアイマン・ザワヒリは過激思想としてジハード闘争をスローガンに掲げ文明の衝突を惹起させている。しかし軍事的、テロ実行の中心的人物としての役割には衰えを隠せない中、イラク・アルカイダはシリア内戦を好機としてシリアに参戦したのである。イラク・アルカイダはアルカイダの頭目ザワヒリと意見が衝突しアルカイダから破門された。その後名称をシリアとイラクのレバント国と変更した。闘争目標を直ちに欧米に向けるアルカイダと、中東のシリア、イラクの地域勢力基盤を先ず固めることに反政府闘争を利用するISIS とは路線が異なっていたのである。

2)「イスラム国」と云う独自の国家観

アルカイダやISISは厳格なイスラム法の統治に基づくイスラム共同体の拡大を目指し、欧米をジハードの対象とするのみならず、シーア派さらにはスンニ派であってもジハードを目指さないムスリムに対してはジハードの対象とし、世界的領域を獲得すると宣伝している。

しかし③領土に対する郷土愛や民衆の歴史・文化に対する愛情は見受けられない。神への絶対信仰がカリフへの絶対忠誠に置き換えられ、独裁的支配体制に向かう以外の選択肢の無い主権国家へと突き進んでいる。

西欧近代国家の要因となる、主権、国民、国土、さらには第2 次世界大戦後に創設された国連への加盟と必要な条件は論議の対象外に置かれている。④基本的人権として保証されるべき生存権や宗教の自由は無視されている。

欧米民主主義社会が築き上げてきた国境観

国とは一定の領域を持ち、域内の住民を有効に統治していることを条件としている。その国境は、対立・敵対の妥協の産物として生まれた” 線引き” という側面も無くはないが、民主国家においては国家が国境内の国民に対する基本的人権を初めとする国益を護るところにその存在価値を強めて来たといえる。

アメリカは移民の国として宗教、人種の違いを超え「神の下におけるひとつの世界」を理想として連邦制による合衆国を形成した。ヨーロッパ諸国は国境を持ちながら欧州経済共同体(EEC)から欧州連合(EU)へと進み、より平和と繁栄をもたらす連合を目指している。このような歴史的努力を背景に「力による現状(国境)変更は認められない」としてロシアのクリミア編入を認めていない。24年前、イラクのサダム・フセイン政権がイラク軍をしてクウェート国境を越え侵犯させたことに対し、⑤国連安保理は全会一致でその侵攻を否定しイラク軍撤収要求を決議した。同様に「イスラム国」が軍事力により一方的国境を無視したシリア・イラクに跨る勢力国家を認められないのは当然だ。1976年にヨーロッパ諸国とシリア、イラク、ヨルダン諸国と締結した「ステータス・クオ」は国連加盟国家として第一次世界大戦、第二次世界大戦後を経て尚あいまいであった国境線引きを確認したものだ。

「イスラム国」への対決を決めたオバマ政権


ケリー米国務長官は湾岸協力会議・地域パートナー会合の参加者と記念写真=9月11日、サウジアラビアのジッダ

アメリカ・オバマ政権が「イスラム国」に対する毅然とした方針と戦略を決定したのは「イスラム国」がインターネット動画での残虐なバグダッドの“処刑”と称する斬首シーンを配信した後と思われる。アメリカは、基本的人権は神から与えられた尊厳な権利ゆえに何人も犯すことができないとし、そのことが脅かされれば国家の全てをかけてその一人の人権を守る為に行動する、という国だ。米軍地上部隊の派遣を否定して代案のように打ち出されたのが空爆と“有志連合”戦略だ。米国共和党からの批判だけでなく米軍幹部からも「地上部隊は必要」との意見が強く出る中での方針だ。マリキ政権を忍耐強く退け、後任のアバディ首相による「挙国一致内閣」の発足を見て空爆を実施したことや、湾岸諸国との入念な根まわしの後に“有志連合”構想を発表したことは「イラク政府を支援するにしても、シリアの反体制派勢力を支援するにしても、当事国と当事国民の主体があってこそのことである」との基本姿勢だ。


ケリー米国務長官はイラクのアバディ新首相と会談=9月10日、バグダッド

特に「イスラム国」の問題の当事者はイラクであり、シリアであり、アラブ・イスラム諸国であることを戦略の基本に据えていると思われる。ケリー米国務長官は9月22日MSNBCテレビ番組で「世界は中東地域が自らのために戦うことを期待している」と述べ、そのあたりの本音をうかがわせた。

国家としての行動と戦略に違いはあるものの、自由と民主主義の基本的価値観を共有する国は、アメリカの提唱する「イスラム国」包囲の“有志連合”に加わることをためらってはならない。日本は安倍首相が有志連合に加わることを表明するとともに難民対策として28億円の支援を約束した。

軍事力の裏づけの無い国際法は、無法集団にとって何の効力も持たないが、国際法を遵守し国際秩序を守ろうとする国家の有志連合は効果的な力を発揮することを信じたい。国連に国連軍が無く、国連決議が迅速に為されない現状において、米英主導の有志連合は国家としての統治能力を失いかけているシリアやイラクの内戦解決に対する可能性ある戦略と言えよう。

文末脚注

ハシミ副大統領(スンニ派):イラク共和国副大統領はアーディル・アブドゥルマフディー(シーア派)とターリク・アル・ハシミ(スンニ派)の2人。ジャラル・タラバーニー大統領はイラク共和国の大統領であり、クルディスタン愛国同盟創始者の一人。マスード・バルザーニ大統領は、イラク共和国クルド地区大統領。KDP(クルディスタン民主党)はクルディスタン北部であり、アルビルはその中心都市。

香田証生(こうだしょうせい)氏を殺害:2004年10月27日「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループが、インターネットで日本人青年を人質にしたと犯行声明を出し、「日本政府が48 時間以内に、イラクからの自衛隊撤退に応じなければ殺害する」と脅迫してきた。日本政府は、青年の解放を求めたが、テロリストとは交渉しないとの立場から、小泉純一郎首相が細田官房長官に「自衛隊は撤退しない」と電話で指示、拒否した。その後、青年はグループにナイフによって首を切断され殺害された。

そこには領土に対する郷土愛や民衆の歴史・文化に対する愛情は見受けられない。
「イスラム国」は自らが異端視する宗教施設を次々に破壊している。他の宗派や宗教の排除を進めているのに伴い、イラクの文化遺産にも大きな被害が出ている。7月24日イラク北部の都市モスルにある廟(びょう)「ナビ・ユヌス・モスク」が爆破された。イラクの貴重な文化遺産の1つが消えた瞬間だった。ここにはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の預言者ヨナが埋葬されていると言われる(イスラム教ではヨナはユヌスと呼ばれる)。キリスト教、イスラム教徒の参拝するモスルの代表的モスクであった。同じようにシリア北部ラッカでの文化財も破壊された。

基本的人権として保証されるべき生存権や宗教の自由は無視されている。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)と国連イラク支援団(UNAMI)は10月2日、イスラム過激組織「イスラム国」をめぐる戦闘で今年1月から9月末までに殺害された市民が、少なくとも9347人に上ったと発表。OHCHRとUNAMIの報告書では「イスラム国はキリスト教徒ら少数異教徒らを意図的かつ組織的に標的とし、弾圧や支配地域からの排除を図った」と非難。(ジュネーブ時事、世界日報10月3日報道)

国連安保理は全会一致でその侵攻を否定しイラク軍撤収要求を決議した。
国連安全保障決議案660号「イラク軍のクウェートからの即時撤収を求める決議」は通過した。(キューバも同調、イエーメン一国のみが棄権)

他の記事は、電子季刊紙 Salaam Quarterly Bulletin, 2014年11月, 冬季号にて…